日本海軍は小型で攻撃力の高い水雷艇の登場がマルチな戦闘艦・駆逐艦を生み出した
世界を驚愕させた日本海軍の至宝・駆逐艦の戦い【第1回】
19世紀後半、安価ながら攻撃力の高さから、各国海軍がこぞって導入した水雷艇(すいらいてい)。そんな難敵に対抗するため、さらに多くの機能を持たせて誕生したのが駆逐艦(くちくかん)である。その使い勝手の良さは、海戦の景色を変えてしまう。

最初は外装水雷を主兵装として建造されていたイギリス海軍水雷艇「ライトニング」。自走水雷(魚雷)が実用化されると。艇首に魚雷発射管を装備。小回りが効く小型艦艇の強みを活かして暴れ回ることを期待された。
駆逐艦はもともと「水雷艇駆逐艦(すいらいていくちくかん)」と呼ばれ、最初の標的は水雷艇であった。19世紀の後半に登場した水雷艇は、後に魚雷へと発達する水雷兵器を用いて、敵艦船を攻撃する小型戦闘艇。だが初期の外装水雷は、長い棒の先端に触発信管付き爆薬を取り付けたもので、敵艦船に肉薄しなければならないうえ、自らも爆発に巻き込まれる危険が高かった。
自走して敵艦艇に突入する水雷兵器、いわゆる魚雷は1865年、オーストリア=ハンガリー帝国海軍のジョヴァンニ・ルッピス海佐が発想。1868年に同国のフューメ(現在のクロアチア・リエカ)で船用の機関工場を経営していたイギリス人のロバート・ホワイトヘッドが実用化している。その翌年には、イギリス海軍により実験も開始された。
魚雷による史上初の戦果は、ロシア帝国とオスマン帝国の間で1877年4月24日から1878年3月3日まで行われた、露土(ろと)戦争においてであった。1878年1月14日、ロシア帝国海軍のステパン・マカロフ大尉指揮下の水雷艇母艦「コンスタンチン大公」から発進した2隻の水雷艇が、オスマン帝国海軍の砲艦「インティバフ」を攻撃。ホワイトヘッド魚雷により撃沈したのが、魚雷による初の戦果と記録された。1879年にイギリス海軍は、艦首に魚雷発射管を装備した水雷艇「ライトニング」を進水させている。
当時、大型装甲艦を沈めるのは、重砲をもってしても難しかった。だが魚雷を使えば小型艇でも容易に大型艦を撃沈できる。1880年代になると、各国海軍がこぞって水雷艇を建造した。当然、航続距離を延ばすこと、高速航行を可能にすること、より強力な兵装を搭載するなどの理由で、大型化の道を歩む。
こうして発達していった水雷艇は、次第に脅威の存在となっていく。各国とも水雷艇の襲撃に備える必要が生じてきた。その攻撃を防ぐには、大型で強力な水雷艇を建造するのが効果的、という答えが導き出される。こうして登場したのが水雷艇駆逐艦だ。
その端緒となったのは、イギリス海軍が1892年度計画で建造した「ハヴォック」と「デアリング」であった。これはどんな水雷艇よりも大きく、兵装は強力で、なおかつ高速航行が可能というスペックを有する艦だった。以来、このクラスの鑑が世界各国で建造されていく。1900年代には水雷艇を駆逐するだけでなく、自らが敵に対して水雷攻撃を行い活躍の場が広がったため、単に駆逐艦と呼ばれるようになった。

A級駆逐艦という艦級に分類された、イギリス海軍の水雷艇駆逐艦ハヴォック。黎明期だったこともあり、さまざまなサブタイプが誕生したが、共通しているのが27ノットの速力が要求されたこと。砲と魚雷発射管を装備。
日本海軍は、明治28年(1895)の1月から2月にかけて行われた威海衛(いかいえい)の戦いで、水雷艇部隊を投入した。威海衛湾内には清国北洋艦隊旗艦「定遠(ていえん)」と、姉妹艦「鎮遠(ちんえん)」という主力戦艦2隻を含む14隻が停泊。山東半島の砲台を占領した日本陸軍に対し艦砲射撃で応戦し、日本軍に多大の被害を与えていた。
そこで大山巌(おおやまいわお)第2軍司令官は、海軍に応援を要請。湾内深くに隠れている艦隊を攻撃するため、海軍は4日夜、闇に紛れて威海衛に水雷艇部隊を侵入させた。そして5日の3時20分頃から魚雷による攻撃を開始する。日本の水雷艇部隊は「定遠」が大破させ、装甲巡洋艦「来遠(らいえん)」など3隻を撃沈する。
さらに9日早朝、再び威海衛に水雷艇部隊を侵入させ、残存艦隊に攻撃を加えた。これで巡洋艦「靖遠(せいえん)」を撃沈。大破・座礁していた「定遠」は砲台と化して応戦するも、陸上からの砲撃を受け戦闘不能となった。「鎮遠」は大破しつつも浅瀬に乗り上げ、沈没は免れた。だが日本海軍に鹵獲(ろかく)される。
この後、日本海軍は明治31年(1898)制定の類別等級で、水雷艇と駆逐艦を「駆逐艇」として分類した。だが2年後には駆逐艦として独立させ、単独で航行する水雷艇建造は明治37年(1904)をもって終了する。その後は艦載水雷艇のみが運用されていた。それに代わり日本海軍で目覚ましい活躍を見せるのが、汎用性の高い戦闘艦「駆逐艦」であった。

日清戦争威海衛の戦いで、日本海軍の水雷艇からの雷撃を受けた後、座礁して無惨な姿を晒す清国戦艦「定遠」。砲台として戦闘を続けたが、陸からの攻撃を受け大破。日本軍に鹵獲されるのを避け自沈した。