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朝ドラ『あんぱん』史実でも危篤の電報より卒業制作を優先 臨終に間に合わなくて当然だった交通事情

朝ドラ『あんぱん』外伝no.29


NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』、第9週は「絶望の隣は希望」が放送中だ。嵩(演:北村匠海)は伯父・寛(演:竹野内豊)が危篤という電報を受け取るも、「仕上げなければ顔向けできない」と卒業制作を完成させてから帰郷。しかし、寛は既に亡くなっていた。実はこの一連の別れと後悔に関してはやなせたかし氏の実体験に基づいている。今回はそのエピソードと、当時の東京~高知の交通事情を取り上げる。


※本稿ではデビュー後のお名前をペンネームの「やなせたかし」で表記、幼少期~学生時代に関する記述を本名で表記しています。予めご了承ください。

 

■「第二の父」の臨終に間に合わなかったという後悔

 

 やなせたかし氏(本名:柳瀬 嵩)は、高知県立城東中学校(旧制中学)を卒業後、伯父の寛さんの理解と後押しもあって、昭和12年(1937)、18歳の時に旧制専門学校・東京高等工芸学校の図案科(現在の千葉大学工学部)に進学した。寛さんの「図案なら飯が食える」という言葉が進路を決めたという。

 

 嵩さんにとって、寛さんは父親同然の存在だった。幼くして実の父である清さんを亡くし、尋常小学校2年生になる頃には実母・登喜子さんの再婚によって、寛さんと妻・キミのもとに預けられた。弟の千尋さんと違って養子には入らなかったものの、分け隔てなく愛してくれたという。

 

 柳瀬家を悲劇が襲ったのは、昭和14年(1939)のことだった。嵩さんは製薬会社への就職を決めて、卒業制作に没頭中。千尋さんは高知高校の2年生に進学しようかという時期だった。50歳になっていた寛さんが突然倒れたのである。

 

 東京で卒業制作に向き合う嵩さんの元には「チチキトク、スグカエレ」という電報が入った。しかし、すぐには帰らなかった。やなせたかし氏は著書において、ポスター1枚を徹夜で仕上げて、不満足な出来ではあったが急いで提出し翌日の列車に飛び乗ったと述懐している。

 

 嵩さんが家にたどり着いた時、既に寛さんは亡くなっていた。嵩さんの帰宅を待ちわびていた千尋さんは「兄貴、遅い!」となじったという。嵩さんはそれに対して何も言えないまま棺にすがって号泣し、その涙はしばらく止まらなかった。

 

 やなせたかし氏は著書『人生なんて夢だけど』において、帰省する際のルートについて「東京駅で特急に乗り、岡山、宇野、高松と乗り継いでいく」と記している。

 

 昭和初期は戦前の列車黄金時代ともいうべき時期で、東海道本線を走る特急列車は「富士」「櫻」など愛称がつけられており、東京から神戸や下関までを繋ぐ列車が多かった。時期や列車によってやや異なるが、東京~大阪間を約9~10時間程度で走行していたという。当時最速を誇った“超特急”の「燕」でも、大阪まで8時間ほどかかった。

 

 とすると、岡山まではまず1011時間ほどかかったことになる。そこからさらに宇野線で宇野駅に向かい、高松までは鉄道連絡船に1時間ほど揺られる。やっとの思いで高松に到着しても、そこからさらに高知の後免町まで列車を乗り継いでいかなければならないのだ(ちなみに現代でも高松港から後免駅までは公共交通機関で3時間程度かかる)。現在と違い、その日のうちにパッと帰れるものではなく、一昼夜かかった。

 

 寛さんが息を引き取った時から嵩さんの帰宅までどれくらいの時間が経っていたのかは不明だが、たとえ卒業制作を放り出して最速で駆け付けたとしても、臨終の瞬間に間に合わなかった可能性は高い(もちろんタッチの差だった可能性も否めないが)。

 

 嵩さんは卒業式には出席できなかったため、その日の卒業写真にも写っていないそうだ。本来晴れやかな気持ちで迎えるはずだった卒業の春を、第二の父だった伯父との永遠の別れというこの上ない哀しみで塗り潰されることになったのである。

イメージ/イラストAC

<参考>

■やなせたかし『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)

■やなせたかし『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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