2人の将軍の養女になるも、婚約者が次々亡くなる…… 悲運の生涯を辿った「竹姫」とは?
大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第20回「寝惚(ぼ)けて候」が放送された。蔦重(演:横浜流星)は大田南畝(演:桐谷健太)を訪ね、今江戸で人気の狂歌の会への誘いを受けて新規路線の開拓を狙う。一方江戸城では、一橋治済(演:生田斗真)の息子の豊千代が次期将軍となったが、既に縁談がまとまっている茂姫と、10代家治が望む種姫のどちらを御台所にするかで田沼意次(演:渡辺 謙)が奔走することになった。治済は薩摩側が「浄岸院様に申し訳が立たない」と主張しているという。さて、この「浄岸院」こと竹姫とは、どのような人物なのだろうか?
■11代将軍家斉の御台所争いにも影響した“将軍家の姫”という立場
竹姫は、宝永2年(1705)、公卿の清閑寺熈定の娘として京都に生まれた。叔母の寿光院は5代将軍・綱吉の側室だった。綱吉と寿光院の間に子ができなかったため、宝永5年(1708)、3歳の時に叔母の養女となって江戸に移り、江戸城の北の丸御殿で養育されたという。
同年、会津藩藩主・松平正容の嫡男だった久千代との縁組が成立。会津松平家は、徳川家康の孫である保科正之を祖とし、徳川将軍家とも縁の深い家である。久千代も将軍綱吉にお目見えした経験があった。将軍の養女となった竹姫にとっても良い縁談だったことは間違いない。
しかし、婚約からわずか半年、同年12月に久千代は14歳で早逝してしまう。こうして、まだ3歳の竹姫は婚約者を突然喪ってしまったのだった。
次の縁談がまとまったのは、その2年後の宝永7年(1710)のこと。お相手は11歳年上の有栖川宮正仁親王である。皇族との縁談とあって、こちらも申し分ない話だった。2人は同年11月に結納を交わしている。
ところが、さらなる悲劇が竹姫を襲った。結納から6年が経った享保元年(1716)、正仁親王が22歳という若さでこの世を去ったのである。入輿を前に2度目の婚約者との死別を経験した竹姫は、この時まだ11歳だった。
ちょうど同じころに8代将軍・吉宗が将軍の位を継ぎ、そのうち竹姫はその養女として迎えられることになった。一説には正室を亡くしていた吉宗が竹姫を継室にと望んだといわれるが、実際の血縁はないといっても竹姫は5代将軍・綱吉の養女。立場上は吉宗からみて義理の大叔母ということになるので、周囲の大反対にあったらしい。
とくにこの話に反対したとされるのは、6代将軍・家宣の御台所だった天英院だったという。本人に何の罪もないとはいえ、2回も婚約者を亡くした竹姫の相手探しは難航したようだが、最終的には天英院が実家の近衛家を通して薩摩藩の島津家に働きかけ、島津継豊との縁組が成立した。享保14年(1729)、竹姫は24歳になっていた。
この縁談は相手が急逝することなく、同年12月に入輿となった。しかし、島津家としては将軍家の姫を迎えるために経済的負担もかかる。しかも継豊には既に側室との間に長男が生まれていた。
「竹姫に男子ができても、側室腹の長男を嫡男とする」などの島津家側からの条件はほぼ無条件で受け入れられ、その上夫となる継豊には異例ともいえる厚遇ぶり。また、竹姫の住まいとして6,890坪に及ぶ屋敷地を下賜されるなどして、島津家は多くの利益を得た。
その後、竹姫は継豊との間に菊姫という女子を産んでいる。また、側室の子である長男・島津宗信の養育にも関わり、さらには義理の孫である島津重豪の養育にも携わった。重豪は竹姫の影響を大きく受けたという。
継豊は隠居するにあたって江戸を去り、故郷に戻ったが、竹姫は同行せず江戸に留まった。そして夫婦は10年後に継豊が亡くなるまで再会することはなかったという。
竹姫が島津家に入って以来心を砕いたのは、島津家と徳川家の婚姻関係を深めることだった。重豪の正室に一橋宗尹の娘(吉宗の孫)の保姫を迎えることになったのも、竹姫の意向だったという。そしてこの竹姫が最後に望んだのも、やはり両家の婚姻だった。
竹姫は安永元年(1772)に68歳で亡くなるのだが、身ごもっていた重豪の側室・お登勢の方の子について「もしも生まれた子が女子なら徳川家に嫁がせたい」という旨の遺言を残したのである。その後誕生した茂姫は一橋家の豊千代(後の11代将軍家斉)との縁談がまとまった。豊千代が次期将軍になるにあたって、五摂家や宮家の姫ではない茂姫では御台所にはなれないという慣例上の問題になった際も、「亡き浄岸院さまのご遺言である」というのが島津家側の強い盾となり、婚儀は予定通り行われたのである。
これが前例となって幕末の天璋院に繋がるのだから、この竹姫という女性が徳川家と島津家に残したものは大きい。

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