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戦国九州の主役たちが戦いを繰り広げた立花城【福岡市東区/粕屋郡新宮町・久山町】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第26回


戦国時代のなかでも多くの武将たちが入り乱れて戦った九州。その主役たちの戦いに関わった名城が立花城であった。


 

■東西約1kmにも及ぶ巨大な山城

 

名島城から立花城を遠望。中央の最も高い山が主郭のおかれた立花山。

 

 立花城(たちばなじょう)は、福岡市東区と粕屋郡新宮町・久山町にまたがる立花山に築かれており、立花山城ともいう。ちなみに、立花山というのは、主峰の立花山のほか、三日月山・松尾山・白岳といった複数の山の総称である。主郭のおかれた立花山は、地表からの高さが280mほどもあるため、典型的な山城といってよい。周囲の山々には、出城が設けられていた。

 

 現在、立花城の城域一帯では、クスノキ原生林が国特別天然記念物に指定されている。自然がよく残されているため、城跡というより、むしろハイキングコースとしての人気が高い。本丸からは、博多湾を一望することができる。

 

眼下の博多は湊町として繁栄しており、江戸時代になって城下町の福岡と一体化した。

 

 立花城は、元徳2年(1330)に豊後・大友氏の一族である大友貞載(おおともさだとし)が築城し、貞載は苗字を大友から立花に改めたという。鎌倉幕府が崩壊したころのことであり、以来、立花城は、大友氏による博多支配の拠点となった。

 

 博多は、古代には外交を司る大宰府(だざいふ)の外港として発展し、南北朝時代から室町時代にかけては、日明貿易の発展とともに、遣明船(けんみんせん)の母港としても発展していた。博多を押さえることが九州を押さえることにもなったため、戦国時代には、周防の大内氏が博多への進出を図り、大友氏と争っている。

 

 天文20年(1551)、大内義隆(おおうちよしたか)が重臣の陶晴賢(すえはるかた)に討たれ、天文24年(1555)には、毛利元就(もうりもとなり)が厳島の戦いで陶晴賢を破った。その後、九州へ進出した毛利元就は、博多を押さえるべく、まず大友方の調略に乗り出している。

 

毛利元就
中国地方全域をほぼ統一した戦国時代の豪傑。謀略などに長け、戦国一の策略家とも称される武将である。

 

 永禄10年(15676月、大友氏の一族で筑前の宝満・岩屋城(ともに福岡県太宰府市)におかれていた高橋鑑種(たかはしあきたね)が、毛利元就に通じて大友宗麟(おおともそうりん)に反旗を翻すと、高橋氏と同じく大友一族であった立花城主立花鑑載も立花城で兵を挙げた。宝満・岩屋城は大宰府を押さえる要衝、立花城は博多を押さえる要衝に位置しており、大友宗麟にとって痛手であったことは間違いない。

 

 そこで、この事態に対処するため、大友宗麟は重臣の戸次鑑連(べっきあきつら)率いる2万の大軍を筑前に送り、まず、立花城に総攻撃をかけさせている。永禄11年(15687月、立花城は内応工作により落城し、立花鑑載自身は落城寸前に脱出して敗走したものの、追撃されて自刃した。

 

多くの石材が福岡城に運ばれたが、主郭の周囲に一部の石垣が現存している。

 

 大友氏の勢力拡大を危惧した毛利元就は、8月、子の吉川元春(きっかわもとはる)と小早川隆景(こばやかわたかかげ)に命じて筑前に侵攻させると、翌永禄12年(15694月には、毛利元就自身が、孫の輝元(てるもと)をともない長門国の府中、すなわち長府に着陣する。こうして万全の態勢を整えた毛利軍は、大友方の立花城を包囲したのである。その軍勢の数は4万という。

 

 このとき、肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)を攻めていた大友宗麟は、急遽、龍造寺氏と和睦すると立花城の救援に向かった。しかし、毛利氏の大軍に包囲された立花城を救うことはできず、兵糧がつきた城内では、宗麟からの密書に従い、閏53日、降伏開城したのである。こうして、立花城は毛利方の城となった。

 

 その後、毛利方となった立花城の攻撃に手こずった大友宗麟は、大内義隆の従兄弟にあたる大内輝弘(おおうちてるひろ)を毛利氏の本国である周防に侵攻させている。長府に本陣をかまえていた元就は、本国を守ることを優先し、元春・隆景に命じ、豊前の門司城だけを残し、全軍を筑前・豊前から撤退させた。

 

 これにより、立花城は再び大友方の手に戻り、大友宗麟はこの立花城を戸次鑑連に守らせた。この戸次鑑連が立花氏の名跡を継ぐことを認められたため、法名の道雪と合わせて立花道雪(たちばなどうせつ)として知られることになる。

 

 立花道雪の死後も、その娘・誾千代(ぎんちよ)と結婚して立花氏を継いだ宗茂(むねしげ)が、大友氏の重臣として立花城をよく守った。天正14年(1586)、大友氏の衰退に乗じて薩摩の島津氏が立花城を攻めた際には、豊臣秀吉の九州攻めまで守り抜いている。

 

立花山の中腹に残る井戸の石組。井戸の存在が長期の籠城戦を可能にした。

 

 秀吉の九州平定後、筑前には毛利元就の三男にあたる小早川隆景が入り、博多湾沿いに名島城を築いたことで立花城は廃城となる。そして、関ヶ原の戦い後、黒田長政(くろだながまさ)が新たに福岡城を築くと、立花城の石垣なども福岡城に移されたのだった。

 

小早川隆景
中国地方の知将として名を馳せた毛利元就の三男。豊臣秀吉政権下では天下統一に大きく貢献し、名将として歴史に名を残す。(国立国会図書館蔵)

 

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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