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関東の大争乱・享徳の乱で関東管領上杉氏方の要衝として機能した「五十子陣」【埼玉県本庄市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第21回


関東の覇権が争われた享徳の乱で、熾烈な合戦場となった陣城跡が埼玉県本庄市に残る。「五十子陣」である。今回はこの陣城について紹介していく。


 

■堀や土塁、曲輪などは本格的な城郭と引けを取らない陣城

 

北側の女堀川を天然の堀としていた五十子陣全景。

 

 五十子陣(いかっこじん)は、埼玉県本庄市に位置する陣城である。陣城とは、戦場に築かれた臨時的な城のことを指す。五十子陣は、確かに臨時に築かれた陣城ではあったが、ただし、堀や土塁によって複数の曲輪が構成される本格的な城郭でもあった。そのため、現在では、五十子城ともよばれている。

 

 五十子は本庄台地の東端にあたり、陣は利根川の南部、女堀川や小山川(こやまがわ)・志戸川(しどがわ)が合流する地点に築城されている。つまり、北・東・南の三方を河川に守られた自然の要害だった。台地上に位置するため、台地上から見れば平城に分類されることもある。しかし、地表からの高さは3mから7m近くもあり、まったくの平地に築かれていたというわけではない。

 

 明治維新後、一帯は開発されており、現在は国道17号線が城跡を貫くなどしている。そのため、残念ながら、遺構としてはほとんど確認することはできない。しかし、幸いにも主郭の一部が公園となり、立地を確認することはできる。

 

東側からの遠望。主郭は本庄台地の突端に位置し、白壁のビジネス旅館「城山館」などとなっている。

 

 五十子陣は、享徳の乱を契機に築かれた。享徳の乱とは、享徳3年(1454)、鎌倉公方・足利成氏(あしかがしげうじ)が、関東管領・上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺したことに始まる争乱である。

 

 室町幕府が成立して以来、関東10か国は、鎌倉を本拠とする鎌倉公方足利氏が支配していた。しかし、5代目の鎌倉公方となった足利成氏は、幕府への対抗心を燃やし、幕府との協調を図る関東管領・上杉憲忠と対立してしまう。関東管領は、鎌倉公方の補佐役であると同時に、監視役でもあったためである。

 

 関東管領上杉憲忠を謀殺した足利成氏は、当然のことながら幕府から追討を受けることとなり、本拠を下総の古河に移す。このため、以来、古河公方と呼ばれることになる。

 

 一方、謀殺された上杉憲忠の弟・房顕(ふさあき)は、関東管領として古河公方・足利成氏に対抗していく。五十子陣は、古河公方足利氏に対抗するため、関東管領・上杉氏によって築かれたのだった。築城は、足利成氏が古河に移った長禄元年 (1457)ころとみられる。

 

 五十子に陣城を築いたのは、近くを鎌倉街道が通る交通の要衝であり、利根川の東北地域を支配していた足利方を牽制することができたためである。上杉房顕が五十子陣で没して養子の顕定が関東管領になってからも、上杉氏は、この五十子陣を拠点として古河の足利成氏に対峙していた。ときには、五十子陣まで攻め寄せてきた古河公方方との戦闘もおきている。

 

主郭の北側は本庄台地の斜面を削り、切岸としている。

 

 そうしたなか、上杉氏の家政を取り仕切っていた家宰の長尾氏において、一族の権力争いがおきてしまう。それは、上杉氏の家宰を務めていた長尾景信(ながおかげのぶ)が没したあと、景信の子・景春(かげはる)が家督を継いだものの、家宰には景春ではなく、景春の叔父にあたる長尾忠景(ただかげ)が任ぜられたことによる。

 

 関東管領の上杉顕定(あきただ)としては、長尾氏の勢威を押さえる意図があったのかもしれない。しかし、主家に対する反発を強めた長尾景春は、文明8年(1476)、ついに武蔵の鉢形城(はちがたじょう)に拠って兵をあげた。そして、五十子陣に駐屯していた顕定と、顕定を支援する上杉一族の上杉定正(さだまさ)を包囲したのである。

 

 そのころ、上杉定正の家宰・太田道灌(おおたどうかん)は駿河の今川氏の家督争いを仲裁するため、主力を率いて駿河に入っていた。景春はその手薄な状況をねらって挙兵したのであろう。結局、道灌による救援は間に合わず、翌文明9年(1477)、上杉顕定・上杉定正らは五十陣を捨て、上野国に敗走した。

 

太田道灌
扇谷上杉家に繁栄をもたらした名将。江戸城を築城した武将としても知られる。(『英雄三十六歌仙』国文学研究資料館蔵)

 

 五十子陣の陥落により、関東管領上杉氏の権威は失墜し、長尾景春に同調する関東の諸将も現れてしまう。こうした危機に対し、太田道灌はまず、上野国に逃れていた上杉顕定と上杉定正を、五十子の陣に復帰させた。上杉氏の権威を取り戻そうとしたのである。

 

 それとともに、太田道灌は長らく対立してきた古河公方足利成氏と上杉氏との和睦を成立させた。こうして、長尾景春を孤立化させた太田道灌が長尾景春を追討し、文明14年(1483)、ようやく幕府と古河公方との間で和睦が実現した。この和睦を「都鄙合体」という。28年間も続いた享徳の乱が終結したことで、古河公方との戦いの最前線であった五十子陣も廃城になったとみられる。

 

本丸の一部は公園として整備され、案内板も建てられている。

 

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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