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「大城」と「小城」の2つの郭をもった豪壮な名城『林城』【長野県松本市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第19回


信濃の名家である小笠原氏によって築城された長野県松本市にその痕跡を残す「林城」。名将・武田信玄ともゆかりがあり、戦国期には壮大な広さの城があったとされる。ここでは松本市に残る城跡を辿りながら、その歴史を紹介する。


 

■甲斐の虎・武田信玄に攻め落とされた壮大な名城

 

林城は、筑摩山地の尾根上に曲輪を連ねる連郭式の山城だった。

 

 林城は長野県松本市に所在する麓からの高さが210mほどの山に築かれた典型的な山城である。現在は、麓から遊歩道が整備されているので散策しやすい。城跡には数多くの曲輪や空堀が残り、要所には石垣も確認できる。

 

 厳密に言うと林城は、松本盆地にせり出した筑摩山地の二つの尾根に築かれている。金華山に築かれた規模の大きいほうを大城(金華山城)、福山に築かれた規模の小さいほうを小城(福山城)と言う。

 

 大城と小城は、谷を挟んで馬蹄形に築かれている。そのため、谷に侵入してきた敵に対しては、大城と小城で挟み撃ちにすることができる構造になっていた。いずれにせよ、大城と小城の総称が林城である。

 

曲輪の周囲に土塁を設け、敵の侵入を阻むとともに曲輪内部を見透かされないようにしていた。

 

 林城は、室町時代に小笠原清宗(おがさわらきよむね)によって築かれたとされる。小笠原氏は、平安時代末期、甲斐源氏の流れをくむ加賀美遠光(かがみとおみつ)の子・長清(ながきよ)が甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠り、小笠原を称したのに始まる。南北朝時代には足利尊氏に従い、室町時代には信濃守護となった。

 

 小笠原氏は、信濃守護ではあったが、信濃国内には上原城の諏訪氏や葛尾城の村上氏などが割拠しており、一国を支配するだけの戦国大名になることはできなかった。そのため、その支配地域も、筑摩郡・安曇郡あたりに限られている。

 

 小笠原氏は長らく松本市街の井川館を居館としており、林城は、その井川城の詰の城として築かれたのだった。ちなみに、井川館と林城は、現在、「小笠原氏城跡」として国史跡に指定されている。

 

主要な虎口付近は、石垣を積んで防御力を高めている。

 

 戦国時代の信濃は、強大な戦国大名が誕生していなかったこともあり、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)に狙われることとなった。諏訪郡・伊那郡・佐久郡を制圧した武田信玄は、小笠原氏の本領である筑摩郡・安曇郡に侵入する。このときの当主であった小笠原長時(ながとき)は、信濃守護家という自負もあったのだろう。信玄に対し、徹底抗戦を貫いていた。

 

武田信玄
甲斐を制圧し、信濃へと侵攻した信玄は次々と信濃で領地を刈り取り、破竹の勢いで突き進んだ。(『芳年武者旡類』東京都立中央図書館蔵)

 

 そうしたなか、更級・埴科2郡を中心に高井郡・小県郡・水内郡を押さえる葛尾城主村上義清(むらかみよしきよ)が、天文17年(15482月、信濃に侵入した武田信玄を上田原(長野県上田市上田原)の戦いで撃破する。この戦いで村上義清が武田信玄を破ったことを知った林城の小笠原長時は、村上氏のほか、安曇郡の仁科氏と連合して4月中旬、武田氏の支配下にあった諏訪郡へと侵攻していく。

 

 さらに小笠原長時は、5000の軍勢で塩尻峠(長野県岡谷市・塩尻市)に進んだ。塩尻峠は、諏訪盆地と松本盆地の境に位置する要衝で、小笠原長時は武田氏の勢力を駆逐しようとしたのである。これに対して武田信玄は、711日に甲府を進発すると、18日には上原城(長野県茅野市)に入った。その後の動きは早く、翌19日早暁、塩尻峠に布陣する小笠原長時の本陣は、武田軍に急襲されたのである。寝込みを襲われた小笠原勢は、合戦開始からわずか2時間で壊滅した。死者は1000人を越えたという。

 

 この塩尻峠の戦い後、小笠原長時は林城に敗走した。すると武田軍も、104日には林城まで南へ8kmの地点にある村井城(松本市村井町)を無血占拠し、林城を押さえる前線基地にしたのである。

 

麓からの高さが200m以上もある山城であるが、城内には井戸が設けられていた。

 

 それから2年後の天文19年(15507月、武田信玄が再び松本盆地に向け、本格的な軍事行動を開始した。715日、林城の出城のひとつであった犬飼(犬甘)城が武田勢に落とされると、深志城・岡田城・桐原城・山家城といったほかの出城の城兵は逃亡し、自落する。抵抗を諦めた小笠原長時は、戦わずに林城を脱出して平瀬城(松本市平瀬)に逃れると、さらに、葛尾城の村上義清を頼って落ちのびた。

 

 こののち、武田信玄は林城を廃し、林城の支城であった平城の深志城を拠点城郭とする。川中島の制圧を図る武田信玄にとっては、堅固な林城よりも、軍勢の出入りが容易な深志城のほうが、有用であったのだろう。ちなみに、この深志城こそ、のちの松本城である。

 

 武田氏の滅亡後、織田氏に従っていた小笠原長時の三男・貞慶(さだよし)が信濃に所領を与えられ、再興を果たす。しかし、江戸時代の小笠原氏は、諏訪湖岸の高島城を居城としており、林城が使われることは二度となかった。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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