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武田信玄が狙った信州の名家・諏訪氏の名城「上原城」【長野県茅野市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第14回


由緒と歴史を誇る名家も戦国時代、城をもった。信州諏訪家の城もそのひとつ。名家の薫りを残す知られざる長野・茅野市の名城「上原城」の現在と歴史に迫る!


 

■名将・武田信玄が狙った信州の要衝の城

 

諏訪氏の居館跡。諏訪氏の滅亡後は武田氏の重臣板垣信方の居館となり、板垣平の地名が残る。

 

 上原城は、長野県茅野市に所在する戦国時代の山城である。江戸時代に讃岐の金毘羅社を勧請しているため、山の名前は金毘羅山という。山頂に本曲輪を置き、二の曲輪・三の曲輪が階段状に配されている。三の曲輪には、金毘羅社が鎮座する。

 

金毘羅社が鎮座する三の曲輪からの遠望。諏訪盆地を一望することができる。

 

 なお、金毘羅山の中腹には、居館が設けられていた。本曲輪・二の曲輪・三の曲輪といった山頂付近の主郭は狭く、居住には適さない。そのため、あえて居館を設けていたのである。おそらく主郭は、戦闘時に籠るための詰の城として設けられていたものだろう。

 

 上原城は、信濃国諏訪郡一帯を治める諏訪氏の居城だった。諏訪氏は、古くから代々諏訪上社の大祝(おおほうり)をつとめていた神職であると同時に武士でもある。諏訪大社は、上社と下社に分かれていたが、諏訪氏はそのうちの諏訪上社の大祝、すなわち宮司を世襲した一族だった。

 

 上原城は文正元年(1466)頃、諏訪信満(すわよりみつ)によって築城されたと伝わっている。そのころ、諏訪氏は一族での家督争いがおこっていたほか、諏訪下社の大祝であった金刺氏とも対立して苦境に陥っていた。そのため、堅固な上原城を居城にしたらしい。

 

二の曲輪にある物見石とよばれる巨石。物見台として用いられたと伝わり、高さは約4mもある。

 

 戦国時代になると、「諏訪氏中興の祖」とよばれる諏訪頼満が、諏訪下社の大祝であった金刺昌春を討滅すると、信濃のみならず、甲斐国内に侵入するほどの勢力を誇った。しかし、甲斐の平定を成し遂げた武田信虎(たけだのぶとら)の勢威が強まってくると、天文4年(1535)、諏訪氏は武田氏と和睦した。

 

武田信虎
甲斐で勢力を伸ばした信虎は信州攻略に着手。甲斐に近い諏訪の地は第一のターゲットとされる。

 

 諏訪頼満の死後、頼満の子・頼隆はすでに早世していたため、孫にあたる頼重(よりしげ)が家督を継ぐ。武田信虎は、頼重に娘の禰々(ねね)を嫁がせ、同盟を堅持する意向を示した。天文10年(1541)の海野平の戦いで信虎が信濃国の佐久郡・小県郡に侵攻し、海野棟綱(うんのむねつな)らを攻めた時、諏訪頼重が村上義清(むらかみよしきよ)らとともに信虎を支援したのも、同盟が機能していたためである。この戦いに敗れた海野棟綱らは、関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)を頼って上野国に亡命せざるをえなくなった。

 

 この直後、甲斐国において武田信虎の子・信玄(しんげん)が父を追放して実権を掌握すると、武田氏と諏訪氏との関係に亀裂が入り始める。海野氏の要請をうけた上杉憲政が軍勢を佐久郡に派遣したとき、諏訪頼重が単独で和睦したことに不満を抱いたことが原因であるとされるが、信玄自身も信濃への進出を図ろうとしていたから、諏訪頼重と上杉憲政との和睦がどうあれ、信濃に侵攻していたにちがいない。

 

 武田信玄が信濃に出陣したのは、天文11年(1542624日のことである。しかし、諏訪頼重に対しては、同盟の破棄を通告していたわけではない。そのため、諏訪氏の側では、佐久郡か小県郡への出兵とみていたようである。諏訪頼重と武田信虎の娘・禰々との間には嫡男・寅王丸(とらおうまる)が44日に生まれたばかりであり、依然として武田氏との同盟は堅持されているものとみていたのは当然であろう。

 

 一方の武田信玄は、諏訪郡への侵攻にあたり、諏訪氏と対立する国衆に対して調略をしかけていた。そのため、諏訪氏の一族である高遠頼継(たかとおよりつぐ)らが、武田方につくことになったのである。高遠頼継に対しては、宮川を境界として諏訪郡を東西に分割し、東を武田領とし、西を高遠領とする密約を結んでいたらしい。

 

 武田信玄の攻撃目標が上原城だと知った諏訪氏は防戦の態勢をとることができず、また、高遠頼継が侵攻してきたことから、北方の桑原城へ撤退して籠城した。そうしたなか、武田信玄から降伏勧告をうけた諏訪頼重は、開城することにしたのだった。和睦の条件については伝わっていないが、諏訪氏の存続や諏訪頼重の助命が条件であったとみられる。

 

 ただ、信玄が和睦の条件を守ることはなかった。甲府に送られた諏訪頼重は、東光寺に幽閉されたのち、自害を強要されてしまうのである。

 

武田信玄と諏訪御料人
諏訪頼重は信玄に討たれ、残された娘・諏訪御料人は信玄の側室となった。この諏訪御料人が産んだ勝頼は信玄の死後、武田家を継承することとなる。(国文学研究資料館蔵)

 

 また武田信玄は、ともに諏訪頼重を討った高遠頼継に対しては、密約通り、宮川を境界として東を武田領とすると、西を高遠領として割譲した。しかし、早くも2か月後には諏訪郡に再び出兵し、諏訪頼重の嫡男寅王丸を奉じて諏訪一族を結集させると、宮川の戦いで高遠頼継を破り、諏訪郡を単独で掌握してしまったのである。

 

 以後、上原城は武田氏による諏訪郡の統治の拠点となった。しかし、天正10年(1582)、武田氏の滅亡により、廃城となっている。

 

主郭の背後に設けられた大堀切。尾根伝いに敵が侵入してこないように設けられた。

 

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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