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羽州街道の要衝に立ち、最上、徳川、上杉の戦場となった「東根城」【山形県東根市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第11回


全国各地には現在では痕跡しか残っていない城跡が無数に存在する。今回は知られざる山形の名城「東根城」の現在と歴史に迫る!


 

■三重の堀を構えた壮大な城だった

 

かつて主郭を囲んでいた堀が龍興寺沼として現在も残る。

 

 東根城は、山形県東根市に位置する平山城である。平城といわれることもあるが、主郭は最上川の支流にあたる日塔川の河岸段丘上におかれていた。東根市はさくらんぼの産地として有名で、最寄りの駅は、奥羽本線の「さくらんぼ東根駅」となる。

 

 現在、主郭の跡は東根市立東根小学校の校地となっており、明確な遺構を確認することはできない。ただし、小学校が石垣と白漆喰(しろしっくい)の塀に囲まれており、いずれも近年に再建されたものではあるが、当時の雰囲気を伝えている。

 

 なお、小学校の脇には樹齢1500年を超すといわれる欅が聳えており、「東根の大ケヤキ」として国の特別天然記念物に指定されている。東根城の起源は明らかではないが、南北朝時代の正平2年・貞和3年(1347)、鎌倉御家人だった小田島長義(おだじまながよし)が所領のあった東根に移り住み、築城したものという。とすれば、「東根の大ケヤキ」は、築城当初からこの地に根を張っていたことになる。

 

推定樹齢1500年超の「東根の大ケヤキ」。かつては「雄欅」と「雌欅」の2本があったが、「雌欅」1本が残る。

 

 室町時代になると、出羽国には幕府の管領も務める斯波氏の一族が羽州探題となり、山形城を本拠として最上氏を称するようになる。そして、東根地域は、最上氏の姻戚となった天童氏の支配下におかれることとなった。

 

 天童氏は、本城の天童城を中心として、俗に「天童八楯」(てんどうやつだて)とよばれる支城群を構え、一帯の支配に乗り出す。当然、この「天童八楯」に東根城も含まれていた。ちなみに、残りの7城は、成生城(天童市)・六田城(東根市)・長瀞城(東根市)・楯岡城(村山市)・飯田城(村山市)・尾花沢城(尾花沢市)・延沢城(尾花沢市)で、現在の天童市・東根市・村山市・尾花沢市にまたがる地域を押さえている。

 

 東根城下は、南北を羽州街道が貫き、東の関山街道が関山峠を越えて陸奥の仙台に通じるという交通の要衝でもあった。そこで天童城主の天童頼直が子の頼高を東根城におき、東根氏を称させたと伝わる。以来、東根城は、天童氏の庶流東根氏の居城として続いた。

 

 戦国時代になると、天童城の天童頼澄(よりずみ)は、山形城の最上義光(もがみよしあき)と、出羽国の覇権をめぐって激しく対立するようになっていく。これがいわゆる天童合戦である。

 

 最上義光は、天童八楯の城主に調略を仕掛けるが、このときの東根城主・東根頼景(ひがしねよりかげ)は、天童頼澄の実弟であり、最上義光の調略に応じることはなかった。しかし、天正9年(1581)、東根頼景の重臣・里見景佐(かげより)が最上氏に内通したため、東根頼景は殺されてしまう。

 

東根氏の滅亡後に城主となった里見景佐の御霊屋。景佐は元和6年(1620)、東根で亡くなった。

 

 天正12年(1584)には、東根氏の宗家にあたる天童氏も最上氏によって滅ぼされ、東根城は、東根頼景を裏切った里見景佐に与えられた。おそらく、それが内通の条件だったのだろう。

 

 こうして、天童合戦後には、東根氏ではなく、里見氏が東根城主となった。このころ、東根城は、近世城郭として大幅に改修されたとみられている。

 

 天童合戦後、最上義光は豊臣秀吉に臣従を誓い、秀吉が亡くなったあとは、徳川家康に仕えた。そのため、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、当然のことながら、東軍についたのだが、そのために、最上義光は西軍についた会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に攻め込まれてしまう。

 

上杉景勝
名将・上杉謙信の跡を継ぎ、上杉家を継承。時の権力者となった徳川家康にも対抗心を絶やさず、会津征伐を受けてしまう。(東京都立中央図書館蔵)

 

 そのころ、上杉景勝は、陸奥国の会津を本拠としつつ、出羽国の米沢や庄内をも領有していた。こうして東根城は、庄内から南下してきた上杉軍に攻撃されることになったのである。

 

 この慶長出羽合戦において、城主の里見景佐は山形城に詰めていたため不在であったが、城兵が上杉軍を阻んでいる。戦後、里見景佐は、57万石の大大名となった最上義光から12000石を与えられた。

 

 『名将言行録』には、上杉景勝の重臣・直江兼続(なおえかねつぐ)が慶長出羽合戦のおり、東根城に籠城して徳川家康を迎え撃つ戦略を練っていたと記されている。『名将言行録』は、江戸時代末期に編纂された逸話集なので、実際に直江兼続がそのような戦略をもっていたのか否かについてはわからない。

 

 ただ、東根城は、南側の日塔川を天然の掘として、そのほか、東側を除く三方に三重の堀を構える広大な城だった。しかも、東側は奥羽山脈に連なる丘陵となっており、防備に優れていたのは確かである。

 

最上氏の改易後に東根城旧三の丸に移り住んだ横尾家の屋敷跡「東の杜」。資料館などとして公開されている。

 

 江戸時代の絵図によれば、東根城の本丸に二重の櫓はあるものの、城全体を隅櫓や多門櫓で囲んでいた形跡はない。しかし、逆に言えば、そうした櫓さえ設ければ、かなり堅固な城になっていたと考えられる。

 

 最上氏は、最上騒動とよばれる御家騒動により、最上義光の孫の代で改易となり、寛文元年(1661)、東根城は破却された。城跡には陣屋が建てられたが、ほとんどは畑地となっている。そのようなことから、戦国時代の遺構はほとんど残されていないが、城の堀が沼として今も残されている。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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