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上杉、北条の関東の両雄が激しく争った「久留里城」【千葉県君津市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第6回


「この山にはよく霧がかかり、遠くから見ると雨が降っているように見え、城の姿が隠し覆われ敵の攻撃を受けにくかった」と評され、周辺で雨がよく降ることから「雨城」とも呼ばれた千葉県君津市の「久留里城」。この城もまた名城と呼ぶにふさわしい規模と防御力を誇ったとされる。今回は久留里城の魅力と歴史を紹介する。


 

■3日に一度、21回雨が降ったという伝説を残し「雨城」と呼ばれた名城

 

久留里城天守を遠望。右下にみえているのが上総掘りの櫓。

 

 千葉県君津市に所在する久留里城(くるりじょう)は、麓からの高さが100mほどの城山に築かれた典型的な山城である。山頂の本丸・二の丸あたりが主郭となり、現在は、一帯が城山公園となっている。そして、本丸には天守が再建され、二の丸には「君津市立久留里城址資料館」が建てられている。天守は展望台を兼ねているため眺望を楽しむこともでき、また、資料館では久留里城だけでなく地域の歴史を学ぶことができる。

 

 曲輪として整備されているのは、この本丸と二の丸が中心であるが、本来は、城山の尾根筋に曲輪が連なっていた。それらの曲輪は、本丸から三方向にのびる尾根を利用して配されており、死角をなくしている。その意味でも、堅固な名城だったことがわかる。

 

 ただし、本丸や二の丸をはじめとする山上の曲輪群はいずれも狭い。基本的に、山上の曲輪群は詰の城という位置づけであったのだろう。日常的には、山麓に居館を構えていたと考えられる。

 

山麓の手前は三の丸で、江戸時代には御殿が建てられていた。中央を貫く久留里街道の向こうが、かつての外曲輪にあたる。

 

 久留里城は、もともと上総守護代・真里谷(まりやつ)武田氏の武田信長(のぶなが)によって築かれたとされる。上総の真里谷城を本拠とする武田氏は、甲斐の武田氏の一族だった。上総の武田氏は、武田信長の代に上総の覇権を握るものの、その死後、一族による家督争いで弱体化していく。

 

 こうした武田氏の凋落に目を付けたのが、安房の里見氏であった。里見氏は、新田義重(にったよししげ)の三男・義俊(よしとし)が上野国碓氷郡里見郷に住して里見氏を称したものという。これが正しければ清和源氏新田氏の庶流ということになる。家伝によれば、里見氏は下総の結城氏らが幕府に反旗を翻して敗北した結城合戦に加わったため、安房に逃れてきたのだとされる。その後の一族の復興は、江戸時代に『南総里見八犬伝』にも取り上げられた。もちろん、『南総里見八犬伝』は伝奇小説であり、すべてが史実にのっとっているわけではない。ただ、里見氏が関東に一大勢力を築くようになったのは事実である。

 

 こうして、武田氏の家督争いに乗じた里見義堯(さとみよしたか)は、ついに久留里城を攻略した。それまでの久留里城は、現在の場所とは異なっていたが、里見義堯によって新たに築城されたとみられる。これが、今に残る久留里城である。

 

 そのころ、関東では小田原城を本城とする北条氏康(ほうじょううじやす)が下総から上総への南下を図っており、久留里城は、北条氏の攻撃にさらされることとなる。永禄3年(15605月には、北条氏康が自ら軍勢を率いて久留里城を包囲した。このときは、久留里城の向かいに対の城を築城するなど、長期戦を覚悟のうえでの攻撃だったようである。これに対し、抗戦の不利を悟った里見義堯は、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)に支援を要請した。おりしも、謙信のもとには北条氏康によって本国の上野を追放された関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)が庇護されており、謙信は里見義堯の救援も大義名分とし、関東への出兵を決めたのである。

 

 永禄38月、上杉謙信が「越山」と称して越後から関東に侵入すると、北条氏康は上杉謙信の南下に備えるため久留里城の包囲を解いた。この越山は、上杉謙信が北条氏康を圧倒しており、翌永禄4年(1561)、上杉謙信は北条氏康の本城である小田原城を包囲している。

 

 以来、里見氏は、上杉氏と結んで北条氏と対峙したが、義堯の子・義弘(よしひろ)は、永禄7年(1564)の第2次国府台合戦で北条氏康に敗れてしまう。久留里城は落城したものの、義弘自身は城から逃れていたようで、ほどなく久留里城を奪還している。そして、海路から上総に侵攻してきた北条氏康の子・氏政(うじまさ)を三船山(みふねやま)の戦いで破った里見義弘は、この久留里城を拠点に安房はもとより上総と下総南部までを支配下においた。

 

 里見義弘の子・義頼(よしより)は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに加わったものの、独自の行動をとったことで秀吉の勘気にふれ、安房一国のみに減封されてしまう。これにより、久留里城は里見氏の手を離れ、関東に入国した徳川家康の支城となった。以来、江戸時代には久留里藩の藩庁となり、大須賀氏・土屋氏・黒田氏といった譜代大名が入っている。

 

 明治維新後、城の建物は破却されたため、残念ながら現存する久留里城に建物はない。江戸時代に三の丸や外曲輪となっていた山麓の曲輪群にいたっては、ほとんどが田畑となっている。

 

本来の天守台土塁は保全され、その背後に望楼型の天守が再建された。

 

 その一方、山上の曲輪には遺構が残されている。本丸の天守は、望楼型の形で鉄筋コンクリート造により再建されているが、幕末に存在していた天守は二重二階の層塔型であったとみられる。ちなみに、本来の天守は、再建天守手前の天守台土塁の上に建てられていた。そのため、礎石などの遺構が破壊されていないのは評価できる。

 

 久留里城は城内に多くの井戸が存在していた。井戸は、籠城時の飲料水を確保するためには必要なものである。久留里城は、「雨城」の名でも知られており、実際、雨が多く降ったらしい。それが、豊富な水をもたらしたものであろう。

 

 また、久留里では古くから上総掘りという井戸の掘削技術が普及していた。こうした上総掘りの技術によって井戸が掘られており、現在でも久留里の城下町では水が湧き出ており、蔵元もある。

 

男井戸・女井戸と称される二つの井戸。井戸は貴重な水源だった。

 

   里見氏が、この久留里城で強大な北条氏と対峙することができたのは、井戸の水があったからこそともいえる。訪れる際には、井戸の場所を確認しながら、歴史に思いをはせてもよいかもしれない。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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