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”日ノ本将軍”と謳われた安東氏が築いた「檜山城」【秋田県能代市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第7回


能代市檜山地域で最も有名な山城跡が「檜山城址」。東西1500m、南北900m、大規模な蝦夷館式馬蹄形の山城として名高く「霧山城」「堀ノ内城」とも呼ばれ、今もその名残を残す。ここでは檜山城の歴史と現在を紹介する。


 

■東北の海上・陸上両方の交通の要衝を抑えた名城

 

城下遠望。山麓には羽州街道が通り、奥には日本海が広がる

 

 檜山城は、秋田県能代市の南東部に位置し、麓からの高さが120mほどの霧山に築かれた山城である。近隣の城館などを含め、「檜山安東氏城館跡」として国の史跡にも指定されている。日本海の海上交通や羽州街道による陸上交通を押さえる要衝に築かれており、眺望はすこぶるよい。

 

 また、馬蹄形(ばていけい)に曲輪が配置されていることもあり、城域は、東西1500m、南北900mにおよぶ。ただし、あまりにも城域が広大であるため、整備されているのは中心部に限られている。

 

 檜山城がいつ築かれたのかについては、残念ながらよくわかっていない。明応4年(1495)ごろに安東忠季(あんどうただすえ)によって完成されたといわれている。この安東氏は、古代に陸奥国を支配していた安倍氏の末裔だという。

 

巨大な堀切。尾根を断ち切っている。

 

 安倍氏は、朝廷からは「まつろわぬ民」、すなわち朝廷に服属していない人々として蝦夷(えみし)と称されていたが、最終的には服属を誓う。朝廷は、服属した蝦夷を俘囚(ふしゅう)とよんでいたが、安倍氏は、それら俘囚をたばねる俘囚長として君臨することとなった。

 

 平安時代の末期に安倍頼時は、「奥六郡」すなわち陸奥国の胆沢・江刺・和賀,稗貫・紫波・岩手の各郡を支配下におくまで成長する。しかし、朝廷からの自立を図ったとされた安倍氏は、鎮守府将軍の源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)父子に討たれ、滅亡してしまう。このとき、陸奥国西部に位置する津軽地方に逃れた安倍氏の一族が安東氏の祖になったというが、確かなことはわからない。

 

 いずれにしても、鎌倉時代に安東氏は、津軽を拠点に勢力を拡大していく。当時は、日本海の海運が盛んになっており、津軽から日本海に流れ込む岩木川の河口には、十三湊とよばれる天然の良港が存在していた。この十三湊を本拠とした安東氏は、出羽国の北部から蝦夷地までの日本海沿岸を支配下におき、「日ノ本将軍」と謳われるまでに成長したのである。

 

 しかし、戦国時代になると、陸奥国東部から勢威を拡大させた南部氏に圧迫され、本拠地の津軽を失う。こうして、出羽国の北部を本拠にするようになった安東氏は、二家に分かれて発展していった。ひとつは米代(よねしろ)川河口部の檜山城を本拠にした檜山安東氏で、もうひとつは雄物(おもの)川河口部の湊城を本拠にした湊安東氏である。なお、八郎潟あたりが、檜山安東氏と湊安東氏の境界となっていた。

 

 檜山城を築いたのは、檜山安東氏である。安東忠季によって完成されたのちには、戦国時代を通じて尋季(ひろすえ)・舜季(きよすえ)・愛季(よしすえ)・実季(さねすえ)まで5代にわたって檜山城を居城としている。この間、檜山安東氏は、出羽国北部における覇権をめぐり湊安東氏と争っていたが、檜山の安東舜季が湊の安東堯季(たかすえ)の娘と結婚することで、両安東氏は和解した。そして、二人の間に生まれた愛季が、両安東氏を統合したのである。

 

技巧的な桝形虎口。直進できずに右に折れる構造。

 

 ただ、両安東氏の統合は、実質的には檜山安東氏による湊安東氏の吸収であったらしい。そのため、天正15年(1587)に安東愛季が亡くなり、幼い実季が家督を継ぐと、不満を抱いていた檜山安東氏の流れをくむ安東通季が反乱をおこしたのである。

 

 このとき、安東通季は、長らく檜山安東氏と対立していた角館城の戸沢盛安(とざわもりやす)や横手城の小野寺義道(おのでらよしみち)をも味方に引き込み、檜山城を包囲した。攻め寄せる敵の数は10倍であったといわれているが、安東実季は由利十二頭(ゆりじょうにとう)とよばれる由利郡の国衆から支援を受け、防戦する。そして、150日とも160日ともいわれる籠城戦を制しただけでなく、逆に、反撃して湊城を奪ったのだった。

 

 檜山城から湊城に居城を移した安東実季は、秋田郡一帯を制圧したということで、苗字を秋田と改める。そして、豊臣秀吉の小田原攻めにも参陣して本領を安堵されたものの、関ヶ原の戦いでは積極的に戦わなかったことで徳川家康の勘気を被り、常陸の宍戸55000石に転封されてしまう。

 

 代わって常陸から秋田に入封したのが佐竹義宣である。佐竹氏は、いったんは湊城に入ったものの、ほどなく久保田城に居城を移す。その後、檜山城は、佐竹氏の支城として改修されたものの、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった。現在、檜山城に建造物は存在しないものの、土塁や堀切などが残されている。江戸時代の初めに廃城となっていることから、戦国時代の遺構がそのまま残されているという意味でも貴重である。

 

曲輪を囲む土塁

 

 なお、八郎潟にも近い男鹿半島の付け根には安東愛季が脇本城を築いており、こちらは続100名城にも選定されている。檜山城は、脇本城にも勝るとも劣らない名城であった。

 

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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