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日本の城史にも例を見ない700年間におよぶ歴史をもつ名城「岩村城」【岐阜県恵那市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第8回


源頼朝の重臣「加藤景廉(かとうかげかど)」が創築した岐阜県恵那市に残る岩村城。鎌倉・室町の300年、戦国の100年、さらに江戸の300年にわたり存続し、日本の城史にも例を見ない700年の歴史をもつ名城の歴史をここでは紹介する。


■「難攻不落の山城」霧の湧き易い気象までも城造りに活かされ“霧ヶ城”と呼ばれる

 

岩村城

六段壁
大和(奈良県)の高取城、備中(岡山県)の松山城と並ぶ「日本三大山城」のひとつに数えられる名城。本丸虎口の大規模な石垣は「六段壁」は崩落防止のために補強を繰り返した結果、六段にもおよぶ石垣となった。

 

 岩村城は、岐阜県恵那市に所在する山城である。城の標高は700mを超えており、江戸時代に存在した城としては、最高地点に築かれていた。ただし、地表からの高さは150mほどであり、典型的な山城といえる。

 

 現在、城跡は日本100名城にも選ばれており、岩村歴史資料館で城について学ぶこともできる。また城下は、藩政時代の面影を残し、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 

本丸
南北に長い台形の曲輪で戦国時代には城主の居館があった。

 

 岩村城は、鎌倉時代の初め、源頼朝に側近として仕えた加藤景廉(かとうかげかど)が築いたとされる。ただし、この時代の岩村城は、山麓に居館を設けた程度であったろう。少なくとも、現在の岩村城の規模ほどではなかった。

 

 加藤景廉は恩賞として美濃国遠山荘の地頭職を与えられており、子孫は岩村城を居城として遠山氏を名乗っている。なお、遠山氏の嫡流は岩村城を本拠としており、庶流に苗木遠山氏・明知遠山氏などがあった。

 

 岩村城は信濃・三河の国境にも近い東濃の要衝に位置しており、武田信玄が信濃を制圧すると、武田氏によって圧迫されることになる。こうしたなか、岩村城主の遠山景任は、尾張の織田氏と結んで武田氏に対抗していく。遠山景任が織田信長の叔母と結婚したのも、典型的な政略結婚であったとみられる。信長の叔母については、「おつやの方」と呼ばれることもあるが、実名はわかっていない。それはともかく、信長が永禄10年(1567)に美濃を制圧すると、岩村城は信長にとっても武田氏を押さえる重要な城となった。

 

武田信玄
甲斐から信濃の奥までを制圧した武田信玄。全盛期には岩村城周辺にまで勢力を伸ばした。東京都立中央図書館蔵

 

 そのころの城主遠山景任は、織田信長の支援を受けながら武田信玄と対峙していたが、元亀3年(1572)に亡くなってしまう。このとき、遠山景任には後継ぎとなる男子がいなかったため、織田信長は実子である御坊丸を遠山氏の養子として送り込んだ。この御坊丸は幼少であったため、実際の政務は信長の叔母が担っていたらしい。そのようなことから、「おつやの方」は女城主と呼ばれている。

 

織田信長
のちに天下人となる信長さえも要衝にたつ岩村城をほしがった。

 

 元亀3年(1572)、自ら駿河から遠江に侵攻した武田信玄は、秋山虎繁(信友)に岩村城の攻略を命じていた。秋山虎繁は、信濃の伊那郡を任されていた重臣である。こうして岩村城が武田軍に攻撃されると、「おつやの方」は降伏開城し、その条件に従い秋山虎繁と結婚することになったという。また、御坊丸は、人質として武田氏の本拠地である甲府に送られてしまった。信長が激怒したであろうことは想像に難くない。

 

石垣
主要な曲輪は石垣で構築されている。

 

 一方、駿河から遠江に侵攻した武田信玄は、三方ヶ原の戦いで徳川家康を破っている。その後、信玄がどのような戦略を立てていたのかはわからない。信玄自身が陣没してしまったからである。

 

 ただ、岩村城を攻略していること、岐阜城の周囲に付城を築いていたことからすると、岩村城を拠点に岐阜城を攻撃する戦略だったのではないだろうか。岩村城が位置する東濃は、織田・武田両氏とも、手に入れておきたい場所だったのである。

 

 織田信長は、岩村城を取り戻そうとしたが、武田信玄の跡を継いだ勝頼によって阻まれてしまう。結局、信長が岩村城を奪還することができたのは、天正3年(1575)の長篠の合戦後のことだった。このとき信長は、降伏してきた秋山虎繁と「おつやの方」を捕らえ、長良川で磔にしたと伝わる。

 

本丸埋門
二の丸から本丸に至る門で、桝形を構成する。右側には二重の櫓が存在した。

 

 以来、岩村城は織田信長の重要な支城となった。本能寺で信長が討ち死にすると、岩村城は信長の家臣だった森長可によって改修され、長可の死後は弟の忠政に引き継がれている。

 

 慶長4年(1599)に豊臣秀吉が亡くなると、森忠政は信濃松代に移封となり、代わって田丸直昌が岩村城主となる。しかし、翌慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで田丸直昌は改易となり、新たに岩村城主となった松平(大給)家乗によって山麓に居館が設けられ、城下町も整備された。

 

 現在の岩村城に、残念ながら建物は現存していない。石垣は、織田信長の家臣であった森長可・忠政兄弟の時代に構築されたとみられる。なお、山麓の居館は明治維新後に火災で焼失したため、平成2年(1990)に復元された。

 

藩主邸
江戸時代になって山麓に建てられた藩主の居館。平成2年(1990)の復元。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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