平安から続き日光への交通の要所にそびえた「宇都宮城」【栃木県宇都宮市】
城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第10回
餃子の街・宇都宮市のど真ん中に城跡があることをご存じか。その歴史は古く平安から幕末まで存在した宇都宮城。今回は知られざる名城「宇都宮城」の現在と歴史に迫る!
■鎌倉時代から交通の要所として栄えた名城

コンクリートで造られた土塁の内部は防災倉庫や展示室。
宇都宮城は、栃木県宇都宮市に所在し、田川の東岸に築かれていた。かつては四重の堀に囲まれた広大な平城であったが、近代になって堀が埋められてしまう。そのため、遺構としてはほとんど残っていない状況であったが、現在は本丸の一部が宇都宮城址公園として整備され、2基の櫓や土塁・堀が復元されている。
なお、土塁の内部は、防災倉庫や宇都宮城ものしり館という展示室になっている。なぜそのようなことができるのかといえば、土塁そのものがコンクリートで造られているためである。土塁がコンクリート造というのは、なんとも興ざめではあるものの、そもそも宇都宮城址公園が都市防災の拠点として整備されていることを考えれば、致し方ないことかもしれない。土塁が崩れてしまっては、防災の役には立たないからである。

土塁の上には、控え柱がついた土塀が復元されている。
宇都宮城は、戦国大名宇都宮氏の居城だった。その起源は古く、平安時代の康平6年(1063)、宇都宮氏の祖とされる藤原宗円(ふじわらのそうえん)が居館を構えたことに始まると伝わる。ただし、当時の宇都宮城は、本丸などの中心部だけであったろう。その後、戦国時代になって、次第に拡張されていったものとみられる。

現在、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のひとり、八田知家は宇都宮氏出身である。(国立国会図書館蔵)
戦国時代、宇都宮氏は関東に進出してきた小田原の北条氏と対峙する。そのため、宇都宮城は相模の北条氏と、北条氏と結んだ日光山に攻められることとなった。ちなみに日光山は、近代になって神仏分離がされているが、当時は日光の寺社を総称して日光山と称していた宗教勢力である。日光山は、僧兵を擁しており、戦国大名と変わらない権力を保持していた。
宇都宮城の宇都宮国綱(くにつな)は、こうした北条氏や日光山の圧迫に耐えかねて山城の多気城(たげじょう)に拠点を移したこともあったが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めに参陣し、しかも北条氏が滅亡したことで本領を安堵されている。秀吉自身も、この宇都宮城に滞在して、奥羽や関東の諸大名と対面し、その処分を伝えている。これを「宇都宮仕置」と呼ぶ。
宇都宮国綱は、豊臣秀吉にも気に入られていたらしい。ところが、秀吉の晩年にあたる慶長2年(1597)、突如として改易されてしまう。理由については、石高を過小に報告したため、あるいは、秀吉の近臣・浅野長政(あさのながまさ)の子との養子縁組を断ったためともいわれるが、はっきりとはわかっていない。宇都宮国綱は、再興を図ろうとはしたものの、秀吉の死により叶わず、結果的に戦国大名宇都宮氏は滅亡してしまったのである。

復元された天守代用の清明台櫓。このほか本丸には5基の櫓が並んでいた。
その直後の関ヶ原の戦いに際し、宇都宮城は会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)を押さえるため、徳川家康(とくがわいえやす)によって整備され、戦後、譜代大名が城主となった。元和5年(1619)には、家康の懐刀として知られる本多正信(ほんだまさのぶ)の子・正純(まさずみ)が15万石で入城している。この正純によって、宇都宮城は、四重の堀をもつ巨大な平城として完成したのだった。

本丸を囲んでいた内堀の西半分も掘削されて整備された。
ところが、元和8年(1622)、2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)が父・家康を祀る日光東照宮を参詣した帰り、宿泊する予定だった宇都宮城の御殿に正純が釣り天井を仕掛け、秀忠を暗殺しようとしたという事件がおこる。これが、いわゆる「宇都宮釣天井事件」であるが、本多正純が徳川秀忠を暗殺しようとしていたことを史実として確認することはできない。本多正純は幕府において権勢をふるっていたから、讒言(ざんげん)によって貶められたのであろう。それはともかく、結果的に本多正純は改易されてしまったのだった。
江戸時代を通して、宇都宮城は、将軍が日光東照宮を社参する際の宿泊地として重視されていた。そのため、本丸には将軍のための御成御殿が建てられており、藩主は二の丸御殿に住んでいる。本多正純の時代には天守があったともいわれているが、少なくとも、その失脚後には宇都宮城に天守は存在していない。そのため、二重の清明台櫓が、天守の代用とされている。ちなみに、清明台櫓は、陰陽師の安倍清明(あべのせいめい)が宇都宮城の繁栄を祈願した場所との言い伝えによって名付けられたという。

大鳥圭介は戊辰戦争において江戸より北へ向かった進軍で大きな戦功をたびたび挙げた。(国立国会図書館蔵)
幕末の戊辰戦争で、宇都宮城は、大鳥圭介(おおとりけいすけ)率いる旧幕府脱走軍に攻撃されて、落城してしまう。その直後、新政府軍が奪回するものの、そのときの戦闘で建物のほとんどは焼失してしまった。また、宇都宮城は石垣を用いていない平城であったため、近代化のなかで、土塁を壊して堀が埋められてしまった。
そのような歴史的経緯から、宇都宮城に遺構はほとんど残されておらず、復元されているのも本丸の西半分だけである。現状からは、当時の威容を想像することは難しい。今となっては四重の堀をすべて復元するのは現実的ではないが、せめて本丸の東半分だけでも復元した姿を見てみたいと思う。