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美濃国を代表する明智光秀ゆかりの城「明知城」【岐阜県恵那市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第9回


名だたる武将たちが覇を争った戦国時代。それぞれの武将の基地として堅固さを誇った城々はいまその姿を残すものは数少ない。ただその名残を残し、遺構としてその薫りを感じられる場所がある。今回は岐阜県恵那市にその痕跡を残す山城「明知城」を紹介。


 

■「畝状竪堀群」と呼ばれる堅牢な防御設備が特徴的な戦国の本格的な山城

 

 明知城は、​日本100名城にも選ばれている、名城・岩村城と同じ岐阜県恵那市にあり、岩村城からは8kmほど南西に位置している。城は地表からの高さが80mほどの通称城山の頂上に本丸をおき、二の丸・三の丸や出丸といった曲輪群を連ねている。現在、城域は公園として整備されているため、探訪はしやすい。

 

本丸
城山の最高所に位置。籠城時には城主が指揮をとった場所。

 

 鎌倉時代の初期、源頼朝に従った加藤景廉(かとうかげかど)が恩賞として美濃国遠山荘の地頭職を与えられたことにより、子孫が遠山氏を名乗り、東濃の各地に割拠することとなった。明知城を築いたとされる遠山景重(かげしげ)は、この加藤景廉の孫にあたる。

 

 遠山一族は、鎌倉・室町時代を通じて在地領主として成長を遂げた。築城当初の明知城の規模は不明ながら、戦国時代に拡張整備されたものと考えられる。明知城が位置する東濃は、信濃・三河国境に近い要衝であり、やがて信濃から美濃への侵入を図る甲斐の名将・武田信玄(たけだしんげん)に圧迫されるようになっていた。

 

武田信玄
武田軍は戦国最強と言われ、本領・甲斐を統一、隣国・信濃をほぼ領国化、そして明知城のある美濃や駿河、西上野、遠江、三河、飛騨などの一部にまで勢力を伸ばした。『武田大膳大夫晴信入道信玄』(東京都立中央図書館蔵)

 

 戦国時代の末期に明知城の城主となっていたのは遠山景行(かげゆき)である。明知城の遠山氏は、惣領となっていた岩村城の遠山氏とともに、当初は武田氏に従う姿勢を見せていたが、東濃へ手を伸ばし始めた織田信長(おだのぶなが)と結ぶことにする。このため、元亀3年(1572)、西上を図った武田信玄の命令により別動隊を率いて侵入してきた秋山虎繁(あきやまとらしげ/信友)に東濃を蹂躙されることになってしまった。

 

織田信長
信長は1566年頃、義父・斎藤道三が有した美濃制圧を目指し侵攻。美濃の武将たちを次々と味方に引き入れていたのである。『名将絵づくし』(東京都立中央図書館蔵)

 

 秋山虎繁の攻撃により、遠山一族の本拠であった岩村城は降伏開城してしまう。これに対し、信長は東濃の国衆に対し、岩村城の奪還を命じたのである。こうして、明知城の遠山景行のほか、小里(おり)城の小里光次・飯羽間(いいばま)城の遠山友信らが岩村城に向かうと、岩村城から打って出てきた秋山虎繁の軍勢と美濃の上村(かみむら)で衝突した。現在の恵那市上矢作町あたりである。

 

 この上村の戦いで、遠山勢は、遠山景行や小里光次が討ち死にしてしまう。遠山一族の完敗だったといってよい。『美濃国諸旧記』によれば、援軍の要請をうけた信長は、明智光秀(あけちみつひで)に東濃への出兵を命じたという。しかし、光秀自身は戦線から帰還したばかりということもあり、実際には叔父の明智光廉(あけちみつかど)が派遣されたと伝わる。光秀の系譜には不明なことも多いが、「明智氏一族宮城家相伝系図書」にも、光秀の父光綱の弟として光廉の名がみえている。

 

虎口
階段状になっており、途中で折れを設けることで直進を阻む。

 

 なぜ光秀が東濃への出兵を命じられたのか。この点について、『美濃国諸旧記』は、光秀が「土地の案内者」であったからだとしている。古来、地元ではない戦地に出兵する場合には、必ず土地に詳しい者に嚮導を命じることになっていた。光秀が嚮導を命じられたのだとしたら、それは東濃の地理や内情に通じていたからなのだろう。結果的に、光秀ではなく叔父の光廉が嚮導になっているが、そうしたことを考えると、明智一族にとって、東濃はなじみのある土地であった可能性もある。

 

明智光秀
光秀にとって東濃はゆかりの地とされ、出生地とする説もある。『太平記英勇伝』(東京都立中央図書館蔵)

 

 明知城の周辺には、「明智光秀公産湯の井戸」や「明智光秀公学問所」など、光秀ゆかりの史跡も多い。これらはいずれも、史料として確認できるものではないが、かといって伝説にすぎないと断定することもできない。『美濃国諸旧記』は江戸時代前期に編纂された史書であるから、必ずしも史実を記しているとも限らないが、明智氏が東濃となんらかの関りはあったことは想像できる。それはともかく、明智光廉の援軍が東濃に着陣したことにより、秋山虎繁も兵を退いたと『美濃国諸旧記』は記す。

 

 武田信玄による西上は、天正元年(1573)に信玄自身が陣没したことで頓挫した。しかし、跡を継いだ武田勝頼は、天正2年(1574)、すでに武田方となっている岩村城を拠点に、明知城の攻略に乗り出したのである。このとき、遠山景行の跡を継いでいた子の遠山利景(としかげ)は、信長に援軍を要請した。こうして信長自身も東濃に出陣したのだが、このまま織田軍と武田軍が衝突すれば、長篠の戦いのような決戦になっていたかもしれない。しかし、援将として入っていた飯羽間城の遠山友信が武田方に寝返ったことにより、援軍を待たずに明知城は落城してしまう。

  

堀切
主要な曲輪を遮断するように展開された大規模な堀切。

 

 こののち、天正3年(1575)の長篠・設楽原の戦いで武田勝頼(たけだかつより)が敗北したことで、遠山利景は明知城の奪還を果たす。しかし、平穏な時間は長く続かず、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が亡くなると、東濃は混乱に巻き込まれていく。そして、賤ヶ岳の戦い後、明知城は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に接近した森長可(もりながよし)の属城となり、遠山利景は城を追われてしまったのである。

 

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、遠山利景は徳川家康に味方して明知城を奪還し、さらには岩村城も攻略した。この功により、旧領6500石を安堵され、ようやく明知城に帰還することができたのである。しかし、大名ではない遠山氏は、ほどなく明知城を廃して山麓に明知陣屋を築く。こうして明知陣屋の遠山氏は、江戸時代を通じ、旗本として幕末を迎えた。

 

 江戸時代の初期に廃城となったことで、明知城には戦国時代の遺構がそのまま残されている。城内では、曲輪はもちろん、土塁のほか、竪堀や横堀などの空堀、堀切などを確認することができる。

 

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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