×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

源氏の英雄の血を継ぐ足利氏が守った名城「西尾城」【愛知県西尾市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第12回


戦国時代、幾多の武将たちが争った。その基地となったのは、もちろん城であり、全国は多くの城が存在。今はその形跡を残すものもあれば、わずかな痕跡しか辿れない城もある。今回は知られざる愛知の名城「西尾城」の現在と歴史に迫る!


 

■戦国乱世を耐え抜き、六万石の城下町の威容を今に伝える城跡

 

西尾城本丸
復元された本丸丑寅櫓。本丸に天守が存在したかどうかは不明。

 

 西尾城は、愛知県西尾市に位置しており、矢作川と矢作古川に挟まれた碧海台地の先端に築かれているため、平山城に分類される。かつては、城下町を堀と土塁で囲む惣構(そうがまえ)が設けられており、広大な城域を誇っていた。しかし、近代化のなかで市街地化しており、現在は、本丸・二の丸を中心とした一部分が、西尾市立歴史公園として整備されている。

 

 西尾城の歴史は古く、鎌倉時代の初期に三河守護となった足利義氏(あしかがよしうじ)が築いた西条城に始まるともいう。ただし、この西条城は、現在の西尾城とは別な場所であるという見解もあり、西尾城の起源についてはよくわかっていないのが実情である。

 

足利義氏
足利家3代目当主。鎌倉幕府から「関東の宿老」と称され、源義家の血が流れている名将。室町幕府初代将軍・足利尊氏の先祖でもある。(国立国会図書館蔵)

 

 足利義氏は、足利氏の当主・足利義兼(よしかね)の三男で、のちに室町幕府を開くことになる足利尊氏(たかうじ)の先祖である。この足利義氏の子・長氏(ながうじ)が西尾に土着し、吉良(きら)氏を称するようになったという。ちなみに、長氏の嫡男・満氏(みつうじ)が吉良氏を継ぎ、次男の国氏が今川氏を名乗った。つまり、西尾は、足利氏・吉良氏・今川氏にゆかりの地ということになる。

 

 吉良氏は長氏の曾孫にあたる満義(みつよし)の代に、2家に分裂してしまった。すなわち、満義の嫡子・満貞(みつさだ)が西条城を本拠としながらも、満義の庶子・尊義(たかよし)が東条城(西尾市吉良町)を拠点に対抗した。そのため、吉良氏は一族で争うこととなり、西尾城も、そうしたなかで西条吉良氏の本城として整備されていったものとみられる。

 

 結局、吉良氏は、西条吉良氏と東条吉良氏が互いに争ったことで疲弊し、戦国大名化を図ることができなかった。そればかりか、尾張の織田信秀(おだのぶひで)や駿河の今川氏に圧迫されることになってしまったのである。こうしたなか、西条吉良氏の吉良義堯(よしたか)の子・義安(よしやす)が、東条吉良氏の吉良持広(もちひろ)の養子になることで一族が融和した。そして、今川氏と結ぶことで、尾張の織田信秀に対抗していくことにしたのである。

 

西尾城内に残る土塁

 

 しかし、永禄3年(1560)の桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわよしもと)が敗死したことで、吉良氏は苦境に陥っていく。岡崎城に復帰した徳川家康(とくがわいえやす)が、今川氏に反旗を翻したためである。吉良義安の弟・吉良義昭(よしあきら)は東条城を守り、西尾城には今川氏真(うじざね)から城将として牛久保城の牧野成定(まきのなりさだ)が派遣されてきた。

 

赤穂浪士 吉良邸討ち入り
吉良氏でもっとも有名な人物に吉良義央がいる。三河吉良家は赤穂事件で改易となるが、もう一方の奥州吉良家は幕末まで残った。(国立国会図書館蔵)

 

 これに対して徳川家康は、永禄4年(1561)、重臣・酒井正親(さかいまさちか)に命じて、西尾城を攻撃させている。戦いに利がないと判断した牧野成定が、西尾城を脱して牛久保城に戻ると、家康は正親を西尾城主とした。さらに家康は、吉良義昭を降し、西尾城と東条城を支配下に置くことに成功している。

 

 こののち、家康が浜松城・駿府城に移ったあとも、西尾城は西三河の要衝として酒井正親に任せていた。天正4年(1576)に正親が没すると、子の酒井重忠(しげただ)が跡を継いで西尾城主となる。そして、天正13年(1585)、家康の命により近世城郭に改修された。これが現在の西尾城で、本丸・二の丸などの主郭は、このときに完成したものとみられる。

 

西尾城二の丸
復元された二の丸の天守台石垣。西尾城の天守は二の丸に存在した。

 

 天正18年(1590)の小田原攻めののち、家康は関東へ転封となり、西尾城は豊臣秀吉の側近で岡崎城に入った田中吉政(たなかよしまさ)の支配下におかれる。このとき、西尾城は三の丸まで城域が拡張された。もっとも、岡崎城や西尾城が、豊臣恩顧の大名の手に渡るのは、家康にとっては屈辱であったのだろう。関ヶ原の戦い後、田中吉政は筑後柳川に転封となり、江戸時代には譜代大名が入れ代わり立ち代わり西尾城に入城し、幕末に至った。

 

 近代化のなかで、当時の建物は残念ながら残されていない。しかし、堀や土塁・石垣が残るうえ、本丸丑寅櫓や鍮石門などが再建されている。江戸時代に、実は天守は本丸ではなく二の丸に存在していた。その天守台の石垣も復元されており、天守そのものの復元も計画されている。

 

土塁上に折れを設けた西尾城の土塀。絵図に基づいて復元された。

KEYWORDS:

過去記事

小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

最新号案内