青森の城山に石垣や堀跡、土塁、桝形など多くの痕跡を残す名城「三戸城」【青森県三戸町】
城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第18回
日本の歴史公園100選に選ばれ、2022年には国史跡にも指定された、青森県三戸町の名城・三戸城。この城は室町の権勢争い、戦国乱世、南部家の家督争いを乗り越え東北の城としてあり続けた。江戸時代までは大きな城であったというが、現在もその壮大さの痕跡を残している。
■かつては幾重にも曲輪が連なる連郭式の大きな城だった

三戸城は麓からの高さが90mほどで、東西に細長い城山に築かれていた。
三戸城(さんのへじょう)は、青森県三戸町に所在し、馬淵川と熊原川の合流地点に位置している。麓からの高さが90mほどの平山城で、東西に曲輪(くるわ)を連ねる連郭式だった。
一般的に、連郭式の城は、尾根上に曲輪を並べるため、どうしてもそれぞれの曲輪は狭くなってしまう。しかし、三戸城は、もともとの地形にも恵まれていたと思われるが、大幅に削平されていることにより、山上の曲輪は驚くほど広い。山上で生活するにも支障がなかったものと思われる。
一帯は現在、県立城山公園として開放されている。本丸の跡は、イベント広場や駐車場になっているため、ほとんど遺構は確認できないが、かつては天守代用の御三階櫓が建てられていたとみられる。本丸の西側には広大な平坦地があり、一般的な城郭では二の丸に相当する。三戸城では、ここに一族や家老など重臣の屋敷がおかれていたらしい。現在は、三戸町立歴史民俗資料館のほか、温故館(おんこかん)が建てられている。天守を模した温故館からは城下を一望することができるが、ただし、ここに天守が存在した事実はない。

本丸の正門にあたる大御門付近の土塁。背後の屋根は、明治維新後に創建された糠部(ぬかべ)神社で、南部光行が祀られている。
南部氏の祖は甲斐国巨摩郡加賀美郷を本拠とした加賀美遠光(かがみとおみつ)で、その3男・光行(みつゆき)が甲斐国巨摩郡南部郷に住して南部氏を称したものである。加賀美氏は清和源氏の流れをくみ、のちに甲斐国の戦国大名となる武田氏とは同族だった。家伝によれば南部氏は、源頼朝の奥州平定を契機として陸奥国糠部郡に入部したというが、判然としない。実際には、鎌倉時代末期に、執権北条氏の地頭代として入部したとも考えられている。

頼朝の奥州平定
源頼朝の鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた戦いの総称。この戦いで頼朝は弟・源義経を討つこととなる。(『奥州高館大合戦』東京都立中央図書館蔵)
南北朝時代になると、南部師行(なんぶもろゆき)が八戸に根城(ねじょう)を築く。根城と名付けられたのは、南朝の根本となる城にするという意味があったらしい。南部氏は、室町幕府の将軍となった足利氏と同じ清和源氏であったが、その足利氏が擁立した北朝ではなく、後醍醐(ごだいご)天皇の南朝についたのだった。
しかし、3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の代には、北朝が優位な形で南北朝が合一し、南部氏も室町幕府に従うようになる。このとき、八戸の根城を本拠とする惣領家の権威は衰え、戦国時代には、三戸を支配下におく庶流の南部氏が勢威を誇るようになった。南部晴政(はるまさ)が三戸城を築いたのも、この頃のことである。

足利義満
それまで国内統治を2分していた南北朝体制を合一させ、室町幕府による日本統治を実現させた名将軍。(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)
南部晴政は、現在の青森県から岩手県に及ぶ広大な領国を支配する戦国大名となった。しかし、実子がいなかった晴政が従弟にあたる信直(のぶなお)を養嗣子としたところ、晴政に実子の晴継(はるつぐ)が生まれたことで家督争いが生じてしまう。天正10年(1582)に晴政が没すると、その直後に晴継が急死しているが、暗殺された可能性も否定はできまい。

三戸城全体の大手門にあたる綱御門。城山の西端に構築されており、櫓門が再建されている。
それはともかく、晴継の死により信直が家督を継ぐが、南部宗家が家督争いで混乱している隙に、津軽では庶流の大浦為信(おおうらためのぶ)が自立を図り、津軽氏に改姓してしまう。この津軽為信が天正18年(1590)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原攻めにいち早く参陣し、津軽3郡の支配を秀吉から承認されたのだった。遅れて参陣した南部信直には、津軽3郡を除く「南部七郡」、すなわち陸奥国の糠部(ぬかのぶ)・岩手(いわて)・紫波(しわ)・稗貫(ひえぬき)・和賀(わが)・閉伊(へい)・鹿角(かづの)の各郡が安堵されるとともに、南部氏の惣領としての地位が認められた。
ただし、豊臣秀吉から信直が南部氏の惣領に認められたとしても、南部一族がそれをすんなりと受け入れたわけではない。これを不服とした一族の九戸政実が反乱を起こしたが、信直は単独で対処することができず、秀吉に支援を要請することで、ようやく制圧に成功している。
このいわゆる九戸一揆後、南部信直は九戸氏の居城であった九戸城(くのへじょう/岩手県二戸市)に居城を移し、福岡城と改称した。ただし、九戸城は「南部七郡」の北端に位置していたため、領国の統治に不都合が生じたらしい。領国の中心に位置する不来方(こずかた)に新たな城を築いて盛岡城(岩手県盛岡市)とした。この盛岡城が江戸時代には南部氏の居城となり、「古城」と呼ばれた三戸城には城代が派遣されている。

大手の綱御門から本丸の間に設けられた鳩御門。桝形となっている。