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一乗谷の朝倉氏遺跡に匹敵する規模を有し、国の史跡に指定される九州の名城「勝尾城」【佐賀県鳥栖市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第16回


九州の戦国において、幾多の武将たちが入り乱れた乱世が演じられた。もちろん、堅固な城をもち巨大な敵とやりあった武将たちはその城跡に戦いの薫りを現在に残す。今はその形跡を残すものもあれば、わずかな痕跡しか辿れない城もある。今回は知られざる佐賀・鳥栖市の名城「勝尾城」の現在と歴史に迫る!


 

■九州の3強が入り交じって奪い合った名城

 

城山の南麓におかれていた居館の跡で、焼失した痕跡が見つかっている。

 

 勝尾(かつのお)城は、佐賀県鳥栖市の北西に位置する谷あいの一番奥にあたる城山(じょうやま)の山頂に築かれている。城山は麓からの高さが350mほどもあり、山城のなかでもとりわけ高い。そのため、勝尾城は詰の城として用いられていたようで、山麓に居館を設け、谷底に城下町を整備していた。

 

 勝尾城そのものは、谷あいの一番奥に位置しているが、その谷の入り口には堀と土塁による惣構が設けられていた。つまり、惣構によって、谷を封鎖していたわけである。敵は、谷の入口に設けられた惣構を突破しなければ、勝尾城にたどりつくことさえできなかった。しかも、勝尾城が築かれている尾根の先端に若山砦が設けられているほか、谷全体を囲むように、葛籠(つづら)城・鏡(かがみ)城・高取城・鬼ヶ城といった支城も築かれており、相当な堅城であったことは間違いない。

 

 谷底に居館や城下町を設け、周囲の山に詰の城や支城を築く形は、越前朝倉氏の一乗谷と同じである。勝尾城と居館および城下町は、一乗谷の朝倉氏遺跡に匹敵する規模を有していることから、支城群も含めて国の史跡に指定されている。

 

戦国時代に築かれた石垣が所々に残されている。

 

 勝尾城は、応永30年(1423)、室町幕府によって九州探題に任じられた渋川満頼の子義俊が築いたとされる。そのころ北九州では、南北朝の動乱で南朝方として活躍した筑前の少弐(しょうに)氏が勢威を誇っており、足利義満によって南北朝が合一されたあとも、抵抗を続けていたためである。勝尾城は、こうした渋川氏と少弐氏との対立のなかで築かれたらしい。

 

 その後、渋川氏と少弐氏との間で勝尾城をめぐる争奪戦が繰り広げられたが、最終的に少弐氏によって攻略され、その家臣筑紫満門(ちくしみつかど)に与えられた。いつ少弐氏が勝尾城を攻略したのかは不明であるが、明応6年(1497)に大内氏が筑前まで侵入してきた際、少弐氏は勝尾城に籠城しているので、少なくとも、それまでには攻略していたことは確実である。以来、勝尾城は、筑紫氏の居城となった。

 

 筑紫氏は少弐氏の庶流で、筑前国御笠郡筑紫村を本貫としたことから、筑紫氏を称するようになったと伝わる。北九州に勢威を誇った少弐氏に従って渋川氏を駆逐すると、本城の勝尾城がある肥前国基肄郡を中心に肥前国養父郡、さらには筑前国夜須郡の半分をも支配する有力な国衆として成長していった。

 

 戦国時代になって、周防国の戦国大名大内氏が北九州に進出してくると、筑紫氏は大内氏に降伏する。しかし、その大内氏が毛利氏に滅ぼされると、今度は毛利氏に従うなど、北九州をめぐる争乱に巻き込まれていった。そして、豊後国の大友宗麟(おおともそうりん)によって毛利氏が北九州から駆逐されたことで、最終的には大友氏に従ったのである。

 

手前は鳥栖市街で、奥が久留米市街。中央一番手前の山が高良山。

 

 そのころの大友氏は、九州全土を制圧するほどの勢威を誇っていた。しかし、天正6年(1578)、日向国に攻め込んだ薩摩国の島津義久を排除するため日向国に侵攻した大友宗麟が、耳川の戦いで島津氏に大敗を喫してしまう。これにより、大友氏の勢威は急速に衰え、替わって島津氏が九州の平定に乗り出していった。

 

 九州の南端に位置する薩摩国から北上を開始した島津氏は、肥後国・筑後国を押さえ、天正14年(1586)にはついに肥前国まで進軍してきた。このとき、勝尾城の筑紫広門(ひろかど)は、島津氏から降伏を勧告されたが拒絶する。筑紫広門は、娘を大友氏の重臣である高橋紹運(じょううん)の次男統増(むねます)に嫁がせるなど、大友氏の一門に連なっていたからである。

 

 筑紫広門が降伏を拒絶したことで、島津義久の弟島津義弘が5万の大軍を率いて勝尾城に攻め寄せた。このとき、筑前国の秋月氏や肥前国の龍造寺氏が島津氏に寝返ったことで、島津軍は10万余の大軍になっていたという。対する勝尾城では、筑紫広門が1000余の城兵とともに守っていた。

 

 勝尾城に迫る島津軍は、勝尾城の南に位置する久留米の高良山に本陣をおく。ここには、筑後一宮である高良大社が鎮座していた。高良山を拠点とした島津軍の猛攻により、勝尾城の支城であった高取城が落城し、守っていた筑紫広門の弟・晴門が討ち死にしてしまう。そうしたなか、降伏開城した筑紫広門は、幽閉されてしまったのだった。

 

 ちょうどそのころ、大友宗麟による要請をうけた関白の豊臣秀吉が、九州平定のため、自ら出陣してくる。これにより島津軍が撤退すると、幽閉先から脱出した筑紫広門は家臣を集めて勝尾城を奪還し、高良山に本陣をおいた豊臣秀吉のもとに参陣した。こののち、九州が豊臣秀吉によって平定されると、筑紫広門は筑後国上妻郡に18000石に移され、勝尾城は廃城となっている。

 

山頂におかけていた主郭は、山城にしては広い。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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