武田信玄と上杉謙信の激戦の地に残る名城「葛尾城」【長野県埴科郡坂城町】
城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第17回
武田信玄と上杉謙信が激闘を繰り広げた川中島の付近に隠れた名城がある。「葛尾城」である。戦国時代、武田信玄を苦しめた村上氏の城であったこの城は現在、戦国の名残を薫らせ、その痕跡のみを残す。今回はこの長野県坂城町の城跡を残す「葛尾城」に迫る!
■千曲川を見渡せる交通の要衝にそびえた名城の痕跡

千曲川からの遠望。中央の最高所が葛尾城で、手前の山は出城だった姫城の跡。
葛尾城は、長野県埴科郡坂城町に所在し、千曲川(ちくまがわ)の北岸に聳える葛尾山に築かれている。麓からの高さは400mほどもあり、戦国時代の山城のなかでも特に堅固だった。山上からの眺望はすこぶる良く、本丸からは城下はもちろん、晴れていれば上田方面に支城の塩田城(しおだじょう)も遠望することができる。千曲川に沿っては北国街道が通っており、葛尾城は、交通を押さえるとともに、周囲を監視することができる要衝に築かれていたことがわかる。

葛尾城から東の上田方面を望む。千曲川が奥から手前に流れている。
葛尾城が築かれている葛尾山は、千曲川から北に伸びる尾根上に曲輪(くるわ)を配置しており、典型的な連郭式の城郭となっている。それぞれの曲輪は、堀切(ほりきり)で遮断するなど、かなりの土木工事が施されていた。ただ、尾根上ということもあり、曲輪そのものは広くはない。
そのため、平時には、東麓の居館に居住していたものとみられる。居館の跡は、現在、村上氏代々の菩提寺である満泉寺(まんせんじ)となっている。なお、葛尾山の東麓からは、登城路がハイキングコースとして整備されており、山歩きとして楽しむ人々も多い。

本丸の切岸。人工的に斜面を削り、上りにくくしている。
築城の経緯については、はっきりしないものの、戦国時代には北信濃で勢力を伸ばしていた国衆である村上氏の本城となっていた。村上氏は、河内源氏の祖である源頼信の子孫と称するが、詳しいことはわからない。それが事実であれば、足利氏や新田氏とは同族ということになる。ちなみに、瀬戸内で水軍を率いたことで知られる村上氏は、この信濃の村上氏の庶流だともいわれている。
葛尾城は南北朝時代に築かれたとも伝わるが、明確な時期についてはわかっていない。戦国時代には、信濃守護である深志(ふかし/現・松本)の小笠原氏の勢威は衰えており、信濃国内に戦国大名は誕生していない。そうしたなか、村上義清(むらかみよしきよ)は、葛尾城のある埴科郡を中心に北信濃へ勢威を拡大していく。そして、最終的には、北信濃四郡すなわち埴科郡・更科郡・高井郡・水内郡などを支配下におくことに成功したのだった。
天文10年(1541)、村上義清は甲斐の武田信虎(たけだのぶとら)ととともに、小県郡の海野氏を圧迫するが、やがて、信虎を追放した子の信玄と対立するようになる。天文17年(1548)には、信濃上田原の戦いで武田信玄(しんげん)を破るなど、優位に戦いを進めていったが、信玄の調略に応じた家臣が離反するなど、苦境に陥ってしまう。そして、ついに天文22年(1553)、居城・葛尾城を武田信玄に逐われてしまったのである。

武田信虎
武田信玄の父であり、有力土豪たちが割拠していた甲斐を平定。府中の城下町を創造した人物で、暴君のイメージとは異なり、有能な武将であったことで再評価されている。
本城の葛尾城を失った村上義清は、越後に逃れて上杉謙信(うえすぎけんしん)を頼った。そして、謙信の支援を受けた義清は、葛尾城の奪還に成功すると、塩田城を拠点として反攻に乗り出す。しかし、今度は信玄によって塩田城を落とされたため、再び越後に逃亡することとなった。
結局、村上義清が再び葛尾城に戻ることはなかった。信濃への復帰を心待ちにしていた義清は、天正元年(1573)、亡命先の越後で生涯を閉じている。

上杉謙信
「義の武将」として知られ、弱き者い味方し助けたという稀代の戦国武将であった。
その後、天正10年(1582)に武田氏が滅亡し、さらに本能寺の変後の混乱の中で上杉景勝(かげかつ)が北信濃四郡を奪う。こうして、義清の子の国清が晴れて葛尾城に復帰することができた。しかし、それもつかの間、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天下人になると、上杉景勝が陸奥会津に転封となり、再び村上氏は葛尾城を失った。
その後は、川中島の海津城(のちの松代城)に入った森忠政の属城となる。関ヶ原の戦いでは、東軍の徳川家康に味方した森忠政の命により、葛尾城は上田城を監視する役割を担った。そのため、西軍の石田三成(いしだみつなり)に味方した真田昌幸(さなだまさゆき)・信繁(のぶしげ)父子によって攻撃されたが撃退している。その後、葛尾城は廃城となったとみられる。

本丸背後の堀切。北側に連なる尾根からの侵入を阻むため、いくつもの堀切が設けられていた。