九州・筑前国に勢力を誇った秋月氏の本城・古処山城【福岡県朝倉市】
城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第23回
戦国時代の九州はさまざまな勢力が入り乱れ、まさに群雄割拠。そのど真ん中で、少弐氏、大友氏、秀吉などが戦いの場とした秋月氏の居城・古処山城はいまも福岡県朝倉市にその名残を残す。
■九州の争乱のど真ん中で生き抜いた名城

写真奥の山に築かれていた古処山城。地表からの高さは800mほどもある山城だった。
古処山城(こしょさんじょう)は、福岡県朝倉市に所在する山城である。一般的に山城は、地表からの高さが100m以上の城のことを指す。この古処山城は、なんと地表からの高さが800mほどもあるという、かなりの山城だった。
城が築かれている古処山は、古くから白山権現が祀られており、修験道(しゅげんどう)の道場としても知られていた。現在では、特別天然記念物に指定されているツゲの原始林も残り、ハイキングコースとしても人気がある。
山全体が石灰岩でできているため、山頂付近には岩が露出していて、曲輪は存在していない。そのため、山頂よりも低いところに曲輪が設けられているが、いずれも広くはないため、基本的には詰の城であったとみられる。平時の居館は、山麓に設けられていたものであろう。ただ、戦時には徹底抗戦することを想定していたらしく、尾根伝いに侵入してくる敵を阻むための堀切のほか、敵の平行移動を阻む竪堀などが残されている。

現在では「馬攻め場」と呼ばれている曲輪の跡。石灰岩で構成されているため、曲輪はかなり制限されている。
古処山城は、鎌倉時代初期に原田氏が築いたとされるが、詳しいことはわかっていない。ちなみに、原田氏は古代の豪族である大蔵氏の末裔(まつえい)という。平安時代中期におきた承平・天慶の乱、いわゆる平将門(たいらのまさかど)および藤原純友(ふじわらのすみとも)の反乱において、大蔵春実(おおくらのはるざね)が藤原純友追討に功があり、大宰府の官人となった。子孫は北九州に土着し、代々、大宰府の官人として筑前国(福岡県)に割拠する。そのうち、筑前国御笠郡原田を本領とした嫡流が高祖山城(たかすやまじょう)を拠点に原田氏を称したものである。
その後、建仁3年(1203)、原田一族の原田種雄(はらだたねかつ)が鎌倉幕府から筑前国夜須郡秋月荘を与えられて秋月氏を称し、古処山城を築いたとされる。つまり、古処山城主の秋月氏は、原田氏とは同族ということになる。
鎌倉時代から室町時代にかけては、筑前国を支配下においた守護の少弐(しょうに)氏に従い、少弐氏の没落後は、北九州に進出した周防国(山口県)の大内氏に従った。そして天文20年(1551)、陶晴賢(すえはるかた)の謀反により大内氏が没落すると、筑前国には、豊後国(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が進出してくる。このとき、古処山城主・秋月文種(あきづきふみたね)は、一族の原田隆種(はらだたかたね)らと抵抗した。しかし弘治3年(1557)には大友宗麟の軍勢に攻められ、古処山城は落城し、文種は嫡男・晴種(はるたね)とともに自害してしまう。
こうしたなか、秋月文種の次男・種実(たねざね)は、大内氏を滅ぼした毛利元就(もうりもとなり)に庇護され、ようやく毛利氏の支援により古処山城の奪還を果たす。そして、天正6年(1578)の耳川の戦いで大友宗麟が島津義久に敗れると、島津氏と結んで大友氏に攻勢をかけていく。秋月氏はこのころ最盛期を迎え、秋月種実は筑前国の大半を領有するまでに至った。
しかし、天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州攻めでは、島津氏に従っていたことが仇となり、島津氏とともに追討の対象とされてしまう。豊臣軍は、まず古処山城の支城の一つである岩石城を大軍で攻め、わずか一日で落とす。このとき、益富城で豊臣軍の動きをうかがっていた秋月種実は、抗戦の不利を悟ると益富城を破却し、古処山城に退いた。古処山城に籠城して迎え撃とうとしたのである。

「水舟」と呼ばれている湧水。このような湧水が籠城時の飲料になったと伝わる。
益富城は古処山城の前衛に位置しており、それほど離れていたわけではない。古処山城に戻った秋月種実が益富城のほうを見ると、破却したはずの城が元通りに修復されていたため、驚愕したという。実際には秀吉が張りぼての城を築かせたと伝わるが、いずれにせよ、一夜城の出現に種実らは戦意を喪失し、降伏を決めたのだった。
開城に際し、種実は名物茶入の「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」と息女を秀吉に差し出した。ちなみに、「楢柴肩衝」は、もともと博多の商人・島井宗室(しまいそうしつ)が所蔵していた名品で、大友宗麟、秀吉らが手に入れようとしても宗室は断ったといわれる。しかし、秋月氏はこれを強引に入手していたらしい。
秋月氏が降伏したことで、島津氏に従う国衆らは徹底抗戦をせずに降伏していった。その後、秋月氏は秀吉の命により日向国(宮崎県)の財部(高鍋)へ移封となり、古処山城は廃城となっている。ちなみに、関ヶ原の戦い後、筑前一国が黒田長政に与えられると、長政の三男長興が5万石を分知されて秋月に入封し、古処山城の山麓に秋月陣屋を築いている。

秋月の城下町を遠望。江戸時代には、古処山城の山麓に平城としての秋月陣屋が築かれた。