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栃木の基礎を築いた皆川氏の栄華が残る名城・皆川城【栃木県栃木市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第24回


鎌倉時代に築城されたともいわれ、栃木の基盤を築いた者たちが常に本城としていたのが栃木市に痕跡を残す皆川城だ。長きにわたりこの地の中心であった皆川城の歴史を紹介する。


 

■『ほらがい城』 とも呼ばれ、標高147mにそびえた平山城

 

南側から望む皆川城。右側が主郭で、段々に設けられた帯曲輪も確認できる。

 

 皆川城(みながわじょう)は、栃木県栃木市にあり、市内を南北に貫く永野川の西岸に屹立する独立丘陵に築かれている。麓からの高さは80mほどなので、典型的な平山城といえる。

 

 独立丘陵に築かれているため、眺望はすこぶる良い。四方を見渡すことができるため、敵が攻め寄せてきた際にも、臨機応変に備えることができた。

 

 城主の居館は、南麓に設けられていたとみられている。つまり、平時は山麓に居住していたのであり、万が一、敵に攻められるようなことがあれば皆川城の主郭に籠もることを想定して築かれていたということになる。

 

 皆川城の大きな特徴は、主郭のある丘陵全体を横堀で囲み、東西に虎口を設けていることにある。敵が城内に入るには、いずれかの虎口を突破しなければならないわけで、城兵を二か所に集中して配置することで、防備の強化を図ろうとしていたものと考えられる。

 

 縄張は、丘陵の最高所に主郭をおき、山麓に向けて帯曲輪を段々に配置している。全体の形が法螺貝のようにみえるということから、「法螺貝城」と呼ばれることもある。

 

 城域については、それほど大きな丘陵ではないものの、帯曲輪の数が多いので、平坦地としてはかなり広い。もっとも、帯曲輪は細長いので、城兵が駐屯するためのものではなく、敵が容易に侵入できないようにするために設けられているものと考えられる。

 

 こうした無数の帯曲輪を貫くように、山麓から山頂の間には竪堀が設けられている。帯曲輪をすべて落とすとなると相当な犠牲を払わなければならなくなるため、敵は、この竪堀から攻め上がろうとする。こうして竪堀に集中した敵を、城兵は上から迎撃することができた。

 

 現在、城跡は「皆川城址公園」として整備されている。公園として少し整備がされすぎているきらいもあるが、樹木が伐採されているため、丘陵の山頂から山麓までに受けられた多数の曲輪、竪堀や横堀などの遺構を確認しやすくなっている。

 

山麓からみた竪堀。敵が攻め登ってくることを想定して折れも設けられている。

 

 この城が、いつ誰によって築かれたのかは、定かではない。鎌倉時代に築かれたとの説もあるが、少なくともそれは、現状の皆川城とはほとんど関係がないといえる。戦国時代に皆川城の城主となっていたのは、皆川氏だった。

 

 皆川氏は、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れをくむとされる小山政光(おやままさみつ)の曾孫・宗員が、下野国都賀郡皆川荘(栃木県栃木市)に住して皆川氏を称したのに始まる。つまり皆川氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて下野国の守護になった小山氏の同族ということになる。

 

 鎌倉時代の小山一族は、皆川氏も含めて鎌倉幕府に重用され、下野国内に大きな勢力を築く。しかし、鎌倉時代末期の元亨3年(1323)、皆川氏は鎌倉幕府の執権北条高時に背いて断絶してしまう。その後、室町時代になって皆川宗員の弟・長沼宗泰の子孫が皆川氏を称することで再興された。

 

 現在の皆川城は、室町時代に、再興された皆川氏によって築かれたものである。その時期については諸説あるものの、一般的には永享元年(1429)のこととされている。

 

主郭から栃木城が築かれた現在の栃木市街を遠望する。奥にみえているのは筑波山。

 

 戦国時代の下野国では、小山氏と宇都宮氏が覇権をめぐって争っていた。このとき、皆川氏が宗家にあたる小山氏に従ったことから、宇都宮氏に攻め込まれてしまう。しかし、皆川城が堅城であったことと、小山氏のほか、小山氏と結ぶ結城氏やの支援により、独立を保つことができた。

 

 戦国時代末期に当主となった皆川広照(みながわひろてる)は、天下人になりつつあった織田信長にも好を通じ、本能寺の変後には、宇都宮氏に対抗するため、下野国まで進出してきていた北条氏に服属している。その一方で、織田信長の後継者となった豊臣秀吉にも通じるなど、外交によって生き残りを図ろうとしている様子がうかがえる。

 

 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めでは、北条氏に服属していたことから、城主の皆川広照は小田原城に籠城した。そのため、皆川城は、豊臣秀吉に従う上杉景勝(うえすぎかげかつ)によって陥落させられてしまったのである。

 

 ただ、皆川広照自身は、すでに北条氏の不利を悟っていたのだろう。小田原開城直前に脱出し、かねてから親交があった徳川家康を通じて豊臣秀吉に降伏したのだった。そして、旧領の3万5000石を安堵されると、翌天正19年(1591)、平城の栃木城を築いて居城を移している。

 

 豊臣秀吉による天下統一が完成した段階においては、皆川城のような堅城はもはや不要とみなされたのだった。むしろ、栃木城のほうが、政治的・経済的な視点からすれば優れていると判断されたのである。皆川氏の栃木城への移転にともない、皆川城は廃城となった。

 

 ちなみに、関ヶ原の戦いで皆川広照は家康に従った。そして、常陸の佐竹義宣(さたけよしのぶ)を牽制した功により、信濃川中島に封ぜられた徳川家康の六男・忠輝(ただてる)の傳役として、信濃飯山7万5000石に加増移封となっている。しかし、子孫に嗣子がなかったことから江戸時代前期には嫡流は断絶となり、庶流が旗本として幕末を迎えている。

 

平時の居館を守るため、山麓には大規模な土塁が構築されていた。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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