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家重・家治・家斉と「大奥」の関係

「将軍」と「大奥」の生活㉑

■在位50年で側室16人、子供の数も50名を超えた11代・家斉

【家斉と大奥の主要人物と子女】

 家斉(いえなり)は、御三卿(ごさんきょう)の一橋家当主・治済と側室・お富(とみ)の長男として生まれた。お富は家治時代に大奥女中を務めていたが、治済が家治に頼んで側室にもらい受けた女性であった。

 

 天明元年(1781)、家斉(当時は豊千代)は9歳で将軍候補として家治に養子入りする。前述の通り、家治の世継ぎ、家基が早世していたためである。天明6年、家治が50歳で病死し、翌年に15歳で第11代将軍に就任した。このときに母のお富、婚約者の茂姫(しげひめ/寔子/ただこ・広大院/こうだいいん)も西の丸から本丸に移り住んだ。

 

 寛政元年(1789)、家斉は茂姫と祝言(しゅうげん)を挙げた。茂姫は薩摩藩の島津重豪(しげひで)の娘であり、外様大名から将軍家への輿入れは異例の出来事だった。将軍家の正室は五摂家か宮家の娘が慣例であったため、近衛経熙(このえつねひろ)の養女に入り、近衛家の姫として家斉と婚姻した。

 

 寛政8年、茂姫は家斉の五男・敦之助(あつのすけ)を産む。夭折(ようせつ)した例を除けば、御台所(みだいどころ)の男子出産は2代将軍・秀忠(ひでただ)の正室お江(ごう)以来である。ただ、その3年前に側室お楽(らく)の方(香琳院/こうりんいん)が産んだ敏次郎(としじろう/のち家慶/いえよし)が世子に決まっており、敦之助は清水徳川家の当主におさまった。側室が産んだ子は茂姫の養子とし、御台所の地位は保たれた。

 

 家斉は在位50年という歴代最長の政権を布(し)き、16人の側室をもった。ことに有名なのがお美代(みよ/専行院/せんこういん)で、家斉の二十一女溶姫(やすひめ)、二十三女仲姫(なかひめ)、二十四女末姫(すえひめ)を産んだ。溶姫は加賀藩主・前田斉泰(なりやす)に嫁いたが、加賀藩の本郷上屋敷では彼女のために御守殿門(ごしゅでんもん)を造り、これが東京大学の赤門として現存している。

 

 家斉の時代には松平定信(まつだいらさだのぶ)が老中首座として寛政の改革を行ったが、その手は大奥にも伸びた。定信は政治的な力を持つ奥女中を排除し、年中行事や建物の修繕にかかる支出を厳密に管理。倹約を強いたため、奥女中の反発を買い、定信失脚後に支出は少しずつ元に戻っている。

 

監修/畑尚子、文/上永哲矢

『歴史人』202110月号「徳川将軍15代と大奥」より)

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