明智光秀は「本能寺の変」の現場にいなかった⁉[日本史の新常識]
今月の歴史人 Part.5
かつて教科書で習った歴史は、日々更新されている。例えば、誰もが知っている「本能寺の変」。その首謀者である明智光秀が実は現場にいなかった……。果たしてそれは事実なのか、掘り下げていく。
■光秀の家臣・斎藤利三の子孫が伝えた真相とは

本能寺の変の当日、光秀は京都の南に位置する鳥羽にあって指揮を執り、実際の襲撃部隊は斎藤利三が率いた2000騎だったという新説が登場。歴史ファンの間で話題となった。明智光秀像/岐阜県可児市所蔵
天正10年(1582)6月2日の早朝、京都の本能寺に宿泊していた織田信長を家臣の明智光秀が襲撃した。世にいう本能寺の変である。このとき、通説では光秀自身が本能寺で指揮を執っていたとされてきた。しかし最近、光秀が本能寺にいなかったとする新説が提起されている。
その典拠が、『乙夜之書物』という史料である。これは江戸時代に、光秀の家老・斎藤利三の三男から聞いた話を加賀藩の軍学者が書き留めたもので、本能寺の変の際、光秀は「鳥羽ニヒカヱタリ」と記す。そこで、光秀自身が鳥羽にいて、斎藤利三らに2000余騎を預けて本能寺を包囲させたものと考えられている。当時、光秀は京都の東に位置する近江の坂本と、西に位置する丹波の亀山を本拠としていた。加えて京都の北は鞍馬などの山地であり、信長を討ち漏らしたとしても逃げられる恐れはない。そういう状況からすると、京都の南に位置する鳥羽で指揮を執ることに不審な点はない。

本能寺焼討之図『本能寺焼討之図』に描かれているのは、信長(右)、森蘭丸(左)、明智三羽烏のひとりだった安田作兵衛(中央)。作兵衛が槍を信長に突きつけている。都立中央図書館特別文庫室蔵
このときの光秀は、1万3000の軍勢を率いていたともいう。一町四方の本能寺を取り囲むのに、それほどの大軍は必要ない。全軍で本能寺を攻めたわけではないのは事実だろう。斎藤利三だけを派遣したという『乙夜之書物』の記述は、この点においても理にかなっている。
ただ、問題となるのは、妙覚寺に宿泊していた信長の長男・信忠の存在である。すでに家督は信忠が継いでおり、光秀は信忠をも標的にしていたことは疑いない。結果的に信忠は自刃に追い込まれたが、逃亡した場合、どのような対処をするつもりだったのか。不測の事態が起きたとき、鳥羽にいる光秀が軍勢を指揮することができたのかは疑問が残る。指揮をするのであれば、本能寺の近くにいるべきだとの考えもあろう。とはいえ、同時代の史料に光秀が本能寺にいたことを示す記述はない。そういう意味からしても、光秀が指揮した場所を鳥羽であると明記しているのは注目に値する。
監修・文/小和田泰経