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群雄が割拠した戦国時代直前の「四国」の勢力図をひも解く

今月の歴史人 Part.4


戦国時代、四国は長宗我部元親がほぼ制覇し、その後、天下人の制圧により天下人の支配下となる。ここではこれまであまり知られていない長宗我部元親が台頭前の四国の勢力図をひも解く。


 

■天下人・織田信長に先立ち 京を支配した阿波の三好長慶

長宗我部元親 戦国時代突入後、四国の覇者となった武将。一豪族に過ぎなかった長曾我部氏の勢力を拡大させた猛将。

長宗我部元親 戦国時代突入後、四国の覇者となった武将。一豪族に過ぎなかった長曾我部氏の勢力を拡大させた猛将。

 四国では多くの群雄が割拠し、激しい興亡を繰り広げた。

 

 その中で別格だったのが、阿波国三好郡(徳島県三好市ほか)を本拠とした阿波三好氏である。南北朝期以降、阿波国の守護を務めたのは細川氏だったが、三好氏は細川氏の配下として、着々と力を付け頭角をあらわした。

 

 永正3年(1506)、三好之長(みよしゆきなが)は細川澄元(ほそかわすみもと)を擁立し、幕府権力を掌握しようとしたが失敗。その孫の元長は細川晴元を支え、畿内支配を目論んだが、こちらも失敗に終わった。天文18年(1549)、上洛した三好長慶は、将軍だった足利義輝を放逐し、畿内の制圧に成功した。むろん、阿波も勢力下にあった。

 

 讃岐を支配していたのは十河氏である。十河氏は細川氏の配下にあったが、当主の十河金光の死後、家督は十河一存(そごうかずまさ/三好長慶の弟)に引き継がれた。実質的には、三好氏の息が掛かっていたのだ。

 

 伊予を支配していたのは河野氏である。水軍を率いていたことでも有名で、平安末期に勃興した河野氏は、南北朝期に伊予国守護に任じられ、以降、子孫が世襲した。ところが、応仁元年(1467)にはじまる応仁・文明の乱で弱体化が進み、衰退の一途をたどった。

 

 伊予国西南部の宇和郡を支配したのは、公家の流れを汲む西園寺氏だった。しかし、西園寺氏の史料は乏しく、支配の内実に不明な点が多い。西園寺氏は戦国期に至って、土佐の長宗我部氏に攻められ降伏した。

 

 

戦国時代の四国勢力図

 

 土佐はもともと細川氏が守護を務めていたが、やがて衰退すると、京都から下向した一条氏が土着して、支配を展開するようになった。一条氏が本拠を置いたのは、中村(高知県中村市)である。ただ、一条氏も関連史料が乏しく、実態に不明な点が多いといえる。

 

 そんな状況下で台頭したのが、岡豊(おこう/高知県南国市)に本拠を置いた長宗我部氏だった。長宗我部氏の中興の祖は、国親である。国親が誕生したのは、永正元年(1504)のことである。

 

 天文16年(1547)以降、国親は近隣の天竺氏、横山氏、下田氏などを次々と攻略し、長岡郡の南部を配下に収めた。その後も国親の勢いは止まらず、やがて土佐郡の南西部を支配下に収めたのである。

 

 弘治元年(1555)には本山氏と抗争を繰り広げ、永禄3年(1561)に勝利を収めた。国親は土佐国内の武将と抗争を繰り広げ、領土の拡大を行ったが、同年6月に病死した。国親の死後、長宗我部家の家督を継いだのが元親である。

 

監修・文/渡邊大門

『歴史人』10月号「戦国大名の勢力変遷マップ」より)

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