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真珠湾攻撃はいつ、誰が、なぜ考えだしたのか?

今月の歴史人 Part.3


今なお、多くが語られる「真珠湾攻撃」──。この奇襲攻撃を機に、日本とアメリカは4年にわたる戦争へと突入する。国力で差があるアメリカに対して、開戦か否かで議論していた日本政府が突如決行したこの作戦は、いつ、だれが、なぜ考えだしたのか?


 

■海軍内での意見対立・真珠湾攻撃への道

 

 連合艦隊司令長官・山本五十六(やまもといそろく)大将は、明治17年(1884)4月4日、新潟県の玉蔵院(ぎょくぞういん)町(現・長岡市坂之上町)に生まれた。

山本五十六 連合艦隊司令長官 1930年頃からハワイの攻撃や空襲について発言。かなり早い時期から真珠湾攻撃構想を持っていた。(国立国会図書館蔵)

 海軍兵学校、海軍大学校を経た山本は、駐在武官として渡米。ハーバード大学に留学して最新の国際情勢などに関する幅広い知識を吸収した。この滞在時に日米の軍事力や工業力の差を深く認識した。帰国してからの山本はアメリカとの戦争に反対の姿勢を示した。山本の口癖は「アメリカの工場の煙突の数を数えてきたまえ」だった。対米関係の重視を説く山本は、ドイツやイタリアとの同盟に傾く政府や陸軍と対立した。

 

 また、山本は来るべき戦争の形が「航空戦」であることを予測し、航空兵力の整備と充実に奔走。それまでの常識では「航空機で大型艦船を撃沈するのは不可能」とされていた。 しかし、山本は空母と艦載機による攻撃の有用性を強く信じた。

 

 そんな山本が発案したのが、空母機動部隊によるハワイ・オアフ島の真珠湾への奇襲攻撃であった。真珠湾は米太平洋艦隊の根拠地である。

現在のハワイ・真珠湾 現在もアメリカ海軍の敷地となっている。かつて真珠貝が養殖されていたことに地名は由来しているという説がある。

 元来、対米戦に反対の山本だが、開戦か否かは政府が進める日米交渉の行方次第である。山本は司令長官という立場に就いてからは、「開戦となった場合、いかにして勝利するか」について考え抜いた。日米間の国力の差を知り抜いていた山本は、だからこそ航空機による奇襲によって戦勝の機会を探ろうとした。日本が勝利するには、「戦力が均衡している初期の段階において大勝し、早期講和に持っていくしかない」というのが持論であった。

 

 山本は近衛文麿(このえふみまろ)から日米戦争の見通しについて聞かれた際、こう語ったとされる。「ぜひやれと言われれば半年や1年の間は暴れてご覧にいれるが、2年、3年となれば全く確信は持てない」

 

 山本は真珠湾攻撃の構想を海軍大臣の及川古志郎(おいかわこしろう)に具申。だが、従来の「戦艦による決戦」という作戦に固執する軍令部は、山本の発案に猛反対した。軍令部総長の永野修身(ながのおさみ)も当初は「あまりにも博打すぎる」として慎重な態度を示した。

 

 しかし、山本が「この作戦が認められなければ連合艦隊長官の職を辞す」と強く詰め寄ったため、最終的には軍令部もこれを認めたのだった。

監修・文/早坂隆

『歴史人』9月号「連合艦隊の真実」より)

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