大型空母へと大変身した幻の大和型3番艦「信濃」の悲劇
「戦艦大和」物語 最終回 ~世界最大戦艦の誕生から終焉まで~
太平洋戦争終盤、戦艦「大和」の船体をベースにした大型空母が竣工した。その名は「信濃(しなの)」。悲劇の空母として名高い「信濃」沈没の謎に迫る。

1944年11月11日、東京湾で公試中の「信濃」。この日と翌12日には各種艦上機の離着艦試験も実施された。
「大和」型戦艦の第1号艦こと「大和」は1937年11月4日に呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)で起工し、1941年12月16日に就役。続く第2号艦の戦艦「武蔵(むさし)」は1938年3月29日に三菱重工業長崎造船所で起工し、1942年8月5日に就役した。
この2隻に続いて、第4次海軍軍備充実計画で同型艦2隻をさらに追加建造することになり、それぞれ第110号艦、第111号艦と称された。そして前者は1940年5月4日、横須賀海軍工廠で起工の運びとなった。
だが、戦争の激化にともなって駆逐艦など小型で建造に時間がかからず、しかも数が求められている軍艦の建造が優先され、それに加えて損傷艦艇の修理も増えたことから、のちに「信濃」と命名される第110番艦の建造は一時中止された。
ところが1942年6月のミッドウェー海戦で日本は赤城(あかぎ)、加賀(かが)、蒼龍(そうりゅう)、飛龍(ひりゅう)という4隻もの艦隊空母を一挙に失ってしまった。そのため空母の急造計画が承認され、すでに船体が完成していた「信濃」も、大和型の3番艦としてでなく空母として完成させることになった。
信濃の空母化に際して、日本海軍は大和型の重防御を活かし、味方の空母機動部隊と敵の空母機動部隊の中間点まで進出させ、「信濃」を中継の空母として使う作戦を構想した。後方の空母を発艦した攻撃隊は、敵を攻撃したあと「信濃」に着艦して燃料補給のうえ後方の母艦に帰還したり、「信濃」で再武装して再び敵の攻撃に向かうといった戦い方である。もちろん、普通の空母としての運用も考えられていた。
1944年11月28日、ほぼ完成していた「信濃」は、最終艤装(ぎそう)を呉で行うため、駆逐艦3隻に護衛されて横須賀を抜錨(ばつびょう)した。艦内には約1000名の工員が同乗して作業を継続していた。
航行を開始してしばらくすると、さまざまな兆候により、潜水艦の追尾を受けている恐れがあると信濃側では感じた。それは事実で、日付が変わった11月29日03時13分、アメリカ潜水艦アーチャーフィッシュは魚雷6本を発射。このうちの4本が信濃に命中した。命中個所は、右舷の艦中央やや前から艦尾にかけてである。
もしも「信濃」が完全に完成しており、乗組員の訓練も終わっていたなら、沈没しなかったかもしれない。だが、まだ未完成だった同艦では浸水への完全な対応ができず、
10時57分、ついに沈没した。なお、信濃の艦歴は竣工から10日、初の出港から約17時間という短いものに終わった。
かくして大和型戦艦の幻の3番艦は空母に姿を変えたうえ、世界の海軍史上もっとも短命な艦として、その生涯を終えたのだった。