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戦国時代の幕を開けた「江の島合戦」

「江の島」の知られざる歴史 Part.2


応仁元年(1467)の応仁の乱から始まったと言われている戦国時代。しかし、最近の研究では享徳(きょうとく)の乱から始まったという説が有力になりつつある。つまり、宝徳2年(1450)に発生した江の島合戦が、享徳の乱のトリガーを引いたと言える。現代では景勝地として人気を集める江の島の地で、一体どんな合戦が繰り広げられたのだろうか?


 

火種となった鎌倉公方VS関東管領の暗闘

美しい海が一面に広がり、遠隔地からも観光客が訪れる江の島。夏場はサーフィンなどが楽しめるスポットとして、幅広い世代から人気を集める。

 室町時代の関東には、地方機関として関東府が置かれ、関東公方(くぼう)によって統括されていた。関東府は鎌倉に所在していたことから鎌倉府、関東公方も鎌倉公方の名で知られている。この鎌倉公方の補佐役として関東管領(かんれい)がつけられており、足利氏の姻戚(いんせき)にあたる上杉氏が世襲していた。

 

 鎌倉公方は幕府から任ぜられるものであるから、鎌倉府は幕府に属する地方機関であった。しかし、歴代の鎌倉公方は幕府からの自立意識が強く、なかでも6代将軍足利義教(よしのり)に敵愾心(てきがいしん)を燃やしていた4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)は、永享10年(1438)、幕府に対して兵を挙げてしまう。このとき、関東管領上杉憲実(のりざね)は足利持氏の挙兵を幕府に報告した。関東管領上杉氏は、鎌倉公方の補佐役であると同時に、監視役でもあったためである。結局、足利持氏は幕府軍に敗北して自害に追い込まれた。これが永享の乱である。

 

 永享の乱で足利持氏は敗死したものの、永享12年(1440)、結城氏朝(ゆうきうじとも)が結城城に足利持氏の遺児を迎え、兵を挙げた。そのため、結城城は幕府軍に攻撃され、捕らわれた足利持氏の遺児は京に連行される途中の関ヶ原で殺害されてしまう。これが結城合戦である。

 

 こうして、関東の制圧に成功した将軍足利義教は、鎌倉府を幕府の直轄にしようと計画するものの、嘉吉(かきつ)元年(1441)、いわゆる嘉吉の変で暗殺された。その後、関東の諸将から請願を受けた幕府は、生き残っていた足利持氏の子成氏(しげうじ)を鎌倉公方として下向させ、鎌倉府を再興させたのである。

 

 鎌倉への帰還を許された足利成氏であったが、新たに関東管領となった上杉憲忠(のりただ)に不満を募らせていく。上杉憲忠は、永享の乱で足利持氏を敗死に追い込んだ上杉憲実の子であり、いわば父の仇であったためである。もっとも、上杉憲実は、将軍足利義教の命令によって足利持氏を追討したに過ぎない。主君にあたる足利持氏の死後は出家するなど哀悼の意を表しており、追討そのものは不本意であったのだろう。

『結城合戰繪巻』の一部。結城氏朝の軍勢と幕府軍が激しく争う様子が描かれている。出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 そんな上杉憲実は、子の憲忠に対し、関東管領にはならないように説得していた。もし関東管領になれば、足利成氏に恨まれることを理解していたためである。しかし、憲忠自身は父に勘当されながらも関東管領となり、必然的に足利成氏と対立していく。

 

 足利成氏にとって上杉憲忠は、父の仇・上杉憲実の子であるというだけでなく、鎌倉公方を監視する邪魔な存在でしかなかった。そこで成氏は、結城合戦で足利持氏の遺児を奉じた諸将の一族を側近に抜擢していったのである。そのため、結城合戦を主導した上杉憲実の子である憲忠は追い詰められ、存亡の危機を感じるまでになっていく。

 

 宝徳2年(1450421日、上杉憲忠の家政をとりしきる家宰(かさい)の長尾景仲(ながおかげなか)らは、鎌倉にある足利成氏の御所を襲撃した。『鎌倉大草紙』という史料によれば、軍勢の数は500余騎という。しかし、襲撃の計画は直前に漏れたようで、手勢が少ないことから鎌倉での防戦を断念した成氏は、すでに前日の夜、江の島に逃れていた。

『鎌倉大草紙』によると軍勢は500余騎と記されているが、戦略の漏洩により成氏は既に江の島へと逃れていた。出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 このとき成氏が江の島のどこに逃れたのかについては、記録に残されていない。風雨をしのぐ必然性があることを考えれば、江島神社の社殿を借りたのではあるまいか。

江島神社(神奈川県藤沢市)の社殿のひとつである辺津宮。建永元年(1206)に、時の将軍・源實朝(みなもとのさねとも)によって創建された。

 江の島は砂州(さす)によって陸地と繋がったいわゆる陸繋島(りくけいとう)である。砂州で敵を食い止めることができれば、島内の安全は保たれる。万が一、上杉氏の軍勢が江の島に渡ってくるような事態になれば、船で房総半島に逃れることもできた。房総半島は、足利成氏に従う里見義実(よしざね)や千葉胤将(たねまさ)の本拠であり、ここで軍勢を集め、鎌倉を奪還するつもりだったのである。

 

 一方、江の島の対岸では、千葉胤将・小田持家(おだもちいえ)・宇都宮等綱(うつのみやひとつな)の軍勢400騎が上杉勢を迎え撃って撃退に成功している。そのため、足利成氏が江の島から船で脱出しなければならないような危険はひとまず回避された。

 

 その後、幕府の仲介により足利成氏と上杉憲忠が和睦した。上杉憲忠は、長尾景仲が主導したとして家宰から罷免したが、成氏は黒幕を憲忠自身とみていたらしい。享徳3年(1454)、憲忠は成氏に暗殺されてしまったのである。

 

 これに対し、憲忠の弟房顕(ふさあき)が幕府から成氏追討の総大将に任ぜられたことで、関東は鎌倉公方足利氏に従う勢力と、関東管領上杉氏に従う勢力が戦いを繰り広げることとなった。この争乱を享徳の乱といい、以来、文明14年(1482)まで実に30年近くも続くことになる。

 

 近年では、ここから幕府の崩壊が始まったという視点から、戦国時代の始まりを享徳の乱とする考えも一般的となっている。その享徳の乱のきっかけとなったのが江の島合戦であることをふまえると、江の島は戦国時代の扉を開いた場所ともいえるのである。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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