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異国船打払令を出していた江戸幕府は、なぜ薪水給与令に方針を転換したのか?

第1回「歴史人検定」練習問題①


鎖国を長年続けていた江戸幕府は、幕末に至って内外から開国への圧力を受けていた。それまで「異国船打払令」によって、諸外国へ排他的な対応を取り続けていたが、ある事件を契機として方針を180度転換させることになっていく。


Q.異国船打払令を出していた幕府は、幕政改革とともに当時の世界の情勢をみて薪水給与令に改めた。ではこのとき、幕府の方針を転換させた世界の情勢として正しいのはどれか?

 

1.アヘン戦争

2.南北戦争

3.ロシア革命

4.フランス革命

 

 江戸時代は国を閉ざした時代であったといわれ、その状況は「鎖国」とよばれている。しかし、「鎖国」という言葉は、江戸時代に来日したオランダ商館の医師ケンペルが著した『日本誌』をオランダ通詞(つうじ)志筑忠雄(しづきただお)が『鎖国論』として抄訳したことから広まったものである。

 

 このころの日本は、3代将軍徳川家光により、日本人の海外渡航とポルトガル船の来航が禁止されたままになっていた。それは、キリスト教が日本国内に広がることを恐れたための施策であり、必ずしも未来永劫、遵守すべき体制とみなされていたわけではない。実際、幕府に対し、諸外国との交流を求める意見も、幕府には寄せられていた。

 

 しかしながら、その後の幕府は、3代将軍家光の時代の体制を「祖法」として守り続けた。それは、ひとつには、オランダや清・朝鮮・琉球とは交流をもっており、まったく国を閉ざしていなかったからである。それとともに、体制を変えることによる責任を当時の老中らが、忌避したことも大きい。

 

 外国から開国を求められたのは、嘉永6年(1853)にアメリカのペリーが来航してからのことだと思われがちである。しかし、実はすでに寛政4年(1792)、ロシアのラクスマンが蝦夷地に来航し、日本との正式な通商を求めてきていた。このとき、幕府はラクスマンに長崎への入港許可証を渡したものの、文化元年(1804)、その入港許可証を所持したレザノフが長崎に来航すると、最終的に通商を拒否している。結局、幕府は体制を変えることを避けたのだった。

 

 なお、このころ日本との通商を求めてきたのは、ロシアだけではない。ロシアに続き、イギリスも日本との通商を求めてきた。実は、イギリスもオランダと同じように、江戸時代初期には日本との通商を許可され、商館も構えていた。しかし、オランダとの覇権争いに敗れ、日本から撤退していたのである。いち早く産業革命を成し遂げたイギリスは、大量生産された工業品を輸出するため、アジアへの市場を開拓していた。そのようなわけなので、日本への進出は、ある意味、オランダに対するリベンジであったと言えるかもしれない。

 

 文化5年(1808)、オランダと敵対するイギリスの軍艦フェートン号が長崎港に不法侵入すると、オランダ商館員を人質にして薪水・食料を要求するという事件がおきた。このような外国船による武力行使に対し、文政8年(1825)、幕府はいわゆる「異国船打払令」を発布したのである。これは、文末に「二念無く打払いを心掛け」とあるように、躊躇なく打ち払うことを命じたもので、「無二念打払令」ともいう。

長崎港内で号砲を放つオランダ船を描いた『阿蘭陀船入津之図』。長崎版画の代表的な版元の一つ『文錦堂』による版画(国立国会図書館蔵)。

 このような法令を出した理由については、本文に「いきりすの船、先年長崎において狼籍に及び、近年は所々へ小船にて乗寄せ、薪水食糧を乞ひ、去年に至り候ては猥りに上陸致し、或いは迴船の米穀島方の野牛等奪取候段、追々横行の振舞、其上邪宗門に勧入れ候致方も相聞え、旁捨置れ難き事に候」と書かれている。

 

「長崎において狼藉(ろうぜき)」というのがフェートン号のことであり、そのほか、異国船が日本への上陸を試みたり、あるいはキリスト教を布教しているとの風聞があったりしたことが発布の引き金になったようである。以来、オランダのほか、清・朝鮮・琉球の船以外が日本の近海に近づいた場合には、砲撃されることになった。

 

「異国船打払令」は徹底されており、天保8年(1837)アメリカの商船モリソン号がマカオから浦賀に来航したときも、幕府によって砲撃され、さらに鹿児島湾に接近したときも薩摩藩に砲撃され、マカオに引き返している。ところがその後、オランダ商館長が幕府に提出した風説書によって、モリソン号には日本人の漂流民が保護されており、その送還も目的の一つであったことが明らかとなった。

 

 こうした幕府の対応に対して批判がおこるとともに、天保11年(1840)には清とイギリスとの間でアヘン戦争が勃発し、結果的に清が敗北してしまう。日本にとって、隣国でありかつ大国であった清がイギリスに敗北したことの衝撃は強く、幕府内でも「異国船打払令」の撤廃が検討されるようになっていく。

 

 天保13年(1842)、幕府は「薪水給与令」を発令し、来航した異国船に対しては 薪水・食料を与えることを命じた。もっとも、これはいわゆる「鎖国」を改めたものではない。対外戦争を回避するため、それまで理由を問わず打ち払っていたものを、薪水・食料を与えることで速やかに退去させたものであり、開国しようとしたものではなかったのである。

 

5月21日(土)・5月22日(日)開催「歴史人検定 第1回」練習問題より

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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