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アメリカ北軍の「スペンサー銃」は、なぜ戊辰戦争で主力兵器になれなかったのか?

戊辰戦争と小銃 第6回「スペンサー銃」


アメリカ南北戦争で、その威力を発揮したスペンサー銃。幕末の雄藩の多くがこの新兵器を入手して配備したが、戊辰戦争では主力兵器になり得なかった。その要因とは?


スペンサー騎兵銃(真田宝物館蔵)
スペンサー銃には馬上でも使用できる銃身の短い騎兵銃があり、小柄な人が多い日本では、騎兵銃の人気が高かったという。

 NHK大河ドラマの『八重の桜』をご記憶されているだろうか。同志社を創った新島襄(にいじまじょう)の妻、新島八重(やえ)こと山本八重の生涯を描いた作品である。会津藩士の子として生まれた若き日の彼女は、銃を手に会津戦争で奮戦した。八重が使用していたのが、スペンサー銃という当時としては最新鋭の銃であった。

 

 どこが新しいのかというと、連続して弾を撃つことができるところである。今の銃だと当たり前の機能だが、当時は一発撃ったら、新しい弾を込めなければ次の1発を発射することができなかった。それが、銃を構えたままレバーを操作するだけで、次弾を装填(そうてん)することと使用済み薬莢(やっきょう)の排出を同時にできるようなったのだ。また、それまでの銃のように銃口に銃槍(じゅうそう)を装着できるモデルもあった。

 

 初期の連発銃としては、ウィンチェスター銃、ヘンリー銃などがあるが、スペンサー銃はアメリカの南北戦争で、時の大統領リンカーンがその有効性を認めたことにより1863年に北軍の軍備に採用されたという。

 

 この銃は1860年にアメリカのCM・スペンサーが開発。床尾(しょうび)端に装填孔があり、そこから実弾を弾倉管の中へ入れて7発詰めておくことができた。

 

 後期のものは、単発と連発とを選択できるようになり、最大7発連続して射撃できた。しかし、7発撃った後には実弾を滞りなく送り出すために入れておいたスプリング管というバネを取り出してから、銃床から手作業で1発ずつ弾を込めなければならない。急を要する時には、弾倉管を使用せずに、1発ずつ弾を込めて発射したらしい。

 

 とはいえ、スペンサー銃の人気が高かったのは連続して弾を撃つことができたからだ。作業を短時間で済ませるために、7発ずつチューブに入れたものを何本か持ち歩いたのではないかと考えられている。このチューブから弾倉管へと実弾を流し込むのだ。

 

 銃本体だけでも3㎏以上の重さがあった上に、予備も含めて大量の実弾を抱えて移動するのは大変だっただろう。もっとも、銃身は鋼製で、火薬を爆発させた時の熱で高温になる。ひどい時には銃身が変形したそうだが、その前に射手が持っていられなくなるので、実際にはどれぐらい連続して発砲できたのだろうか。

 

 スペンサー銃は、一説によると南北戦争時に5万挺製造されたとされている。ちなみに南北戦争は1865年に終結しており、余剰となったスペンサー錠がかなりあったようだ。

 

 日本で最初にスペンサー銃を購入したのは佐賀藩だったが、慶応4年(1868)の戊辰戦争時には4700挺余りが日本に入って来ていた。スペンサー錠の名声は鳴り響いており、そのため他の銃よりも大変高価であった。

 

 旧幕府軍側の会津藩の山本八重が使用していたことからもわかるように、新政府軍側だけがこの銃を入手していた訳ではなかった。もっとも高価であったので、大量に購入して実戦部隊に投入したのではなく、比較的身分が高い武士などが自費で購入した「持筒」だったのではないかと考えられている。

 

 ちなみに、この銃を使用するには専用の実弾を使用しなければならない。日本でも金属性の弾薬筒の製造を試みたが成功せず、実弾は輸入に頼ざるを得なかった。このため、戊辰戦争の早い時点で神戸などの開港場を押さえてしまった新政府軍の方が銃弾をより多く手に入れることができたのである。

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加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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