旧式兵器「火縄銃」は戊辰戦争で活躍したのか?
戊辰戦争と小銃 第1回 「火縄銃」
スナイドル銃などの最新式の銃が使用された戊辰戦争では、戦国時代からほぼ進歩していない火縄銃も多数使用された。意外と知られていない火縄銃の戊辰戦争史とは?

前装式の火縄銃を後装式に改造した銃。しかし、このような改造銃がどれくらい造られたのか、またどれほどの活躍を見せたのかわかっていない。「改造された火縄銃」板橋区立郷土資料館蔵
俗説ではあるが、旧幕府軍が新政府軍に敗れたのは、使われた銃が戦国時代に日本に伝わった古い形式の火縄銃が多かったからだという。では、本当に火縄銃は戊辰戦争で使用されていたのだろうか。
火縄銃は寛永14年(1637)に起こった島原の乱が翌年終結すると、兵器として活躍する場面はほとんどなくなった。これ以降従来は火縄銃関係の産業は衰退していったと考えられていたが、近年堺市で鉄砲鍛冶をしていた家から資料が発見された。これによると江戸時代を通して数は少ないが新調や修理などもあり、これまで考えられていたよりも使用が盛んであったことが明らかになった。
それでも平和な世の中では銃はあまり使用されることはない。農民たちが鑑札を受けた上で猟をする程度だった。それが再び注目されるようになったのは、江戸時代も後半になり、日本近海を外国船がうろうろし始めたからだ。
文化5年(1808)8月、長崎港にイギリス軍艦フェートン号がオランダ船と偽って入港する事件が起こる。だまされたとはいえ、やすやすと侵入を許した責任を取って長崎奉行の松平康英(まつだいらやすひで)が切腹、警護の当番であった佐賀藩の藩主鍋島斉直(なべしまなりなお)も処分された。
こうした事態を憂いて、西洋の火器を入手し、広めようとした人物がいる。長崎の町年寄高島秋帆(たかしましゅうはん)だ。町年寄の仕事のかたわら蘭学を学び中でも砲術に通じてオランダからゲベール銃などを取り寄せるほどだった。
江戸時代日本は鎖国していたといわれているが、実際にはオランダを通じていち早く外国の情報を入手しており、当然隣の大国清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを幕閣などは知っていたという。オランダ人からそのことを知った秋帆は清が負けたのは砲術が未熟であったからだとし、我が国の海防に西洋流砲術を取り入れるべきだと幕府に上書。これが受け入れられ、幕府関係者を集めて徳丸原で天保12年(1841)5月に西洋流砲術を披露した。
幕府は西洋流の採用を決めるが、保守派の反対に合い頓挫。しかし、嘉永6年(1853)6月にペリー艦隊が来航すると事態は一変する。軍事力に圧倒されて外国との条約を結ばざるを得なくなったからだ。軍備の違いを見せつけられ、軍事力の強化を痛感した幕府や諸藩は欧米諸国から争うように洋式銃を購入。しかし、洋式銃は高価で数多く購入することは難しかった。
手先の器用な日本人は、洋式銃の製造を試みて成功したのだが、大量生産には至らなかった。もしかしたらそれよりも簡単で安価に大量に銃をそろえる方法が生み出されたのも少しは影響していたのかもしれない。実は、国内にあった火縄銃を改良して洋式銃のようにしたものが造られるようになったのだ。火縄銃は火縄を用いて点火し発砲する。火縄は雨が降ると火が消えてしまうなど扱いが難しい。これを撃鉄(げきてつ)を落とした摩擦熱で点火する方法に変えた。こうした改良銃を「菅打ち火縄銃」(かんうちひなわじゅう)という。火縄銃は銃口から弾を入れるが、これを尾栓から詰める方法に改良した火縄銃もあった。
もっとも、軍備を増強するにあたり火縄銃をその持ち主ごと徴発することもあったというから、戊辰戦争で一体どれくらいの火縄銃が使用されたか記録はないが、立派に役目を果たしていたようだ。

後装式に改造された火縄銃の装弾箇所。前装式の銃に比べ装填の手間がはぶけ、兵士たちの射撃ペースをあげる効果があった。