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大井夫人 ~夫・信虎と息子・信玄の間で揺れながらも甲斐武田家を支えた賢女~

今月の歴史人 Part.4


女の命運は男とともにあった──。戦国の常でもあった動乱は武田信玄が隆盛をもたらした武田家の女たちにも押し寄せ、策略、戦、夫の討死、子の早世などの悲運に巻き込まれていく。今回は信玄の母として、そして甲斐の統治を確立させた信玄の父・信虎の正室として武田家に存在感を示した大井夫人の生涯を紹介する。


 

猛将・武田信虎の正室であり
名将・武田信玄の母として甲斐武田家を支えた

 

武田神社甲斐武田氏の館跡に立ち、信玄を祀る神社。境内には城のような跡が残っている。

 

■和睦のための政略結婚で嫁いだ夫が武田家を追放される憂き目に

 

 大井夫人は、明めい応おう6年(1497)に甲斐国西郡(現、南アルプス市)の国衆(豪族・国人)・大井信達(おおいのぶさと)の長女として誕生した。大井氏は、室町初期に武田宗家の武田信武(のぶたけ)から分かれた名族であり、甲斐源氏武田大井氏を名乗り、有力豪族を統率した。時には隣国・駿河の今川氏とも手を組んで、武田信虎を苦しめたこともある。信虎自身も、何度か大井氏と戦いながら完勝できなかった。

 

 こうした状況下で、大井夫人と信虎の結婚はいつであったのか不明だが、永正(えいしょう)6年(1509)前後から、両家の和睦が成立した永正14年の間ではないかといわれる。大井夫人が最初の娘(後の今川義元夫人・定恵院)を生んだのが永正16年とされることからの推測だが、いずれにしても信虎が石和から甲府・躑躅ヶ崎に館を移す以前であったろう。

 

 大井夫人は、娘1人の他に信玄(晴信)・信繁・信廉(のぶかど)の男子3人を生んでいる。信玄は、大永元年(1521)に駿河・今川軍1万5千が甲府に迫り、信虎が2千の武田勢で応戦している最中の11月3日に詰めの城・積翠寺城(せきすいじじょう)で誕生した。武田軍は直後の11月23日の上条川原合戦で大勝している。

 

信玄産湯井戸信玄誕生の地・要害城(積翠寺)に残る産湯の井戸。敵の攻撃に備える場所であり、誕生直前は敵の脅威にさらされていたときだったという。

 

 大井夫人は、王道政治の道を歩かせるため信玄の教育を徹底した。信玄が、信虎を駿河に追放した後も甲府で暮らし、天文21年(1552)5月、56歳の生涯を閉じた。

 

監修・文/江宮隆之

 

(『歴史人』12月号「武田三代 栄華と滅亡の真相」より)

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