北条夫人 ~武田家滅亡とともに自らの命も絶った悲運の女性~
今月の歴史人 Part.1
女の命運は男とともにあった──。戦国の常でもあった動乱は武田信玄が隆盛をもたらした武田家の女たちにも押し寄せ、策略、戦、夫の討死、子の早世などの悲運に巻き込まれていく。今回はその象徴的な女性として描かれる武田勝頼の正室・北条夫人の生涯を紹介する。
相模の北条家からやってきた才女
19歳の若さで運命に身を委ね自刃

勝頼夫人悲壮な最期を遂げた夫人は、槍をもち、戦う姿をイメージさせる絵が多く残される。介錯は勝頼が行ったと伝わる。(国立国会図書館蔵)
北条夫人は、北条氏政(ほうじょううじまさ)の妹として永禄7年(1564)に誕生。姉が5人いて、父・氏康には末子であったという。天正5年(1577)1月、武田勝頼の後添いとして嫁入りした。政略結婚ではあるが、勝頼側からの強い希望で成り立って実現したものであった。この婚姻は、2年前の長なが篠しの合戦の大敗北を経て、勝頼には宿老・高坂弾正昌信(たかさだんじょうまさのぶ)の勧めに従っての北条家との連携強化の一環であった。
北条夫人は、高貴で崇高な人柄が伝えられている。恵林寺(えりんじ)の快川(かいせん)国師は夫人について「高貴で崇高な人柄が滲んでいる人で、周囲の者に、知らず知らずのうちに徳を与え、芝蘭のようなかぐわしさを与える」と表現しているほどである。勝頼にとって、ひとときの安寧をもたらしてくれる女性であった。
天正10年2月、織田・徳川連合軍が甲斐・信濃(しなの)の武田領内に侵攻。木曽(きそ)・穴山など親族衆や重臣たちが次々に離反するのを知った北条夫人は、韮崎・神山にある武田八幡宮に心の叫びともいえる「願文」を奉納した。
「願わくば、霊神力を合わせて勝つことを勝頼一身につけしめ給い、仇を四方に知り退けん」
と書く夫人の「絶唱」は、現代までも読む者の胸を打つ。夫人は勝頼の「北条に戻れ」という命令を聞かず、天目山(てんもくさん)・田野(たの)で天正10年3月11日、勝頼・信勝らとともに自刃した。
19年の短い生涯を閉じた。

武田家終焉の地に、武田勝頼の死を弔うため徳川家康が建立した景徳院。境内には、北条夫人が自刃した様子を掘った碑が立つ。
監修・文/江宮隆之