「ゴールドラッシュ」をもたらした徳川家康の金山開発・財政ブレーン・大久保長安とは?
「どうする家康」 天下人の選択をささえたブレーンたち 【第8回】
家康(いえやす)側近の中でも異色の経歴を誇る大久保長安(おおくぼながやす)。鉱山開発でその能力を開花させた元武田家家臣で、家康からもその能力を買われ吏僚として抜擢された。数奇な運命をたどった長安の事績を解き明かす。

家康から八王子の領主に任じられた大久保長保。同地に陣屋を設け、浅川の治水事業や千人同心を置き、江戸の治安維持にも貢献した。写真は大久保長安の陣屋跡。
甲斐(かい)・武田氏が滅び、織田信長(おだのぶなが)が本能寺で横死(おうし)した天正10年(1582)、家康は甲斐・信濃の占有を巡り、越後・上杉、相模・北条と三つ巴(みつどもえ)の戦いをしのぎ、これを制した。その際に活躍したのが、旧武田家臣団であり、名のある者だけでも900人近くが新規に家康に召し抱えられた。
しかし、大久保長安は、この新規組には入っていない。長安は、猿楽師・大蔵太夫(さるがくし・おおくらのたゆう)の2男として信玄に仕えたが、武将ではなく「諸国使い番」や「蔵前衆(代官として金銀米穀などの徴集・保管に当たる)」を歴任した。これが、後に徳川幕府の「テクノクラート(経済官僚)」として力を注ぐことに繋がった。
長安を前にして家康は、その時点で最も信頼していた武将であり参謀でもあった大久保忠隣(ただちか)に預けた。土屋姓を名乗っていた長安は、この後に「大久保姓」を名乗るようになる。長安は、甲斐国の総代官となり甲斐国の検地をやり遂げ、さらに家康の関東5ヶ国時代には伊奈忠次(いなただつぐ)の下で、いくつもの代官職・奉行職をこなした。
この直後の徳川家における長安は、後の老中に当たる加判・年寄衆や勘定奉行、さらには一里塚(いちりづか)総奉行であった。それだけではない。家康に金銀をもたらせたのは、長安の鉱山開発という功績のお陰であった。武田時代の甲州金山経営という経験を生かして、佐渡・伊豆・石見(いわみ)などの金山銀山の経営に従事した長安は、家康にとり大事な財政ブレーンであった。
長安が経営を担当すると、石見銀山は1年の運上金が一挙に3600貫に達し、佐渡金山では上杉時代には僅かな砂金に留まっていた金の運上が、1万貫の産出量になった。まさに、日本最初の「ゴールドラッシュ時代」を長安は創出したのだった。長安の成功は、従来の竪掘りを横穴掘りに変えたことと、水銀流しという西洋の技術導入にあった。
結果として、長安は八王子9万石を領し、自ら創設した八王子千人同心を統率し、関東100万石を預かる関東代官頭、郡山(こおりやま)6万石・岐阜7万石・甲府24万石に佐渡・石見・伊豆奉行など兼務によって預かり高は151万石に及んだ。
長安は、徳川幕府の重臣であり、経済の実質を預かる金山・銀山を抑えた。つまり長安は、自治大臣・通産大臣・財務大臣・特命大臣・国務大臣までを担当する立場になっていたのである。しかも伊達政宗(だてまさむね)の娘・五六八姫(いろはひめ)を娶(めと)った家康の6男・松平忠輝(まつだいらただてる)の後見と執政までを担当した。「天下の惣(総)代官」と呼ばれ、権力の極みに立った感があった。
しかし、慶長18年(1613)4月、長安が病死すると、長安とその一族は「謀叛(むほん)」の疑いをかけられ、すべてが処断された。家康にとって最も頼りになる男が、最も危険な存在となったことを示した事件であった。長安は享年69。