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名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅

清正と正則と利家 ─豊臣秀吉を支え、ともに名古屋から飛躍した仲間たち─

名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅⑤

■幾多の武功で秀吉の戦いに貢献した猪武者「福島正則」

福島正則/『太平記英雄伝三十三 福島左衛門太夫正則』東京都立中央図書館特別文庫室蔵

秀吉の縁者として秀吉家臣団へ欠かせない存在として活躍

 福島正則は、桶狭間の戦いの翌年にあたる永禄4年(1561)、尾張国海東郡二寺、現在のあま市で生まれたといわれる。『寛政重修諸家譜』によると、父は福島正信、母は秀吉の父・木下弥右衛門の妹という。これが正しいとすれば、正則は秀吉の従弟ということになる。ただ、実は星野成政の子で福島正信の養子となったとする説もある。

福島正則生誕地名古屋市に近いあま市に残る正則の生家跡に立つ碑。現在も正則は地元の尊敬の念を受ける。

 系譜関係には不明な点があるが、秀吉の縁者であったのは確からしい。幼少のころから秀吉に仕えていたといい、天正6年(1578)、播磨三木城攻めで初陣を飾り、200石を与えられた。賤ヶ岳の戦いでは、加藤清正らとともに「七本槍」と称せられ、その後の秀吉による天下統一戦にも活躍している。

 石田三成と対立していた正則は、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、戦後には安芸広島50万石の大名になった。しかし、広島城の無断修築を咎められて所領を没収され、蟄居先の信濃・川中島で病死してしまう。

堀川に立つ正則の銅像名古屋の中心を流れる堀川は、福島正則の手によって開削された。その功績を称え立てられた。
写真提供/武将愛

 結局、正則の家系は江戸時代に大名として残ることができなかったが、時世におもねらない生き方が共感を得たのも確かである。現在、出身地とされるあま市には、小学校や保育園に正則の名が残されている。

 

 

■若き頃からの友情で秀吉と結ばれた槍の又左「前田利家」

前田利家/「利家公尊像 桶狭間凱旋」前田育徳会蔵

足軽時代からの秀吉とともに大武将へと駆け上がる

 前田利家は、天文7年(1538)、尾張国海東郡荒子(あらこ)村に生まれた。『寛政重修諸家譜』によれば、父の名は利昌あるいは利春(としはる)という。当時の前田氏は織田信秀(のぶひで)に従う土豪で、荒子城主として2000貫を領していた。

 利家は、14歳で信秀の子信長に近習として仕え、天文21年、信長が尾張下四郡守護代・織田信友と戦った萱津の戦いで初陣を飾った。永禄元年(1558)には、従妹にあたるお松(芳春院)と結婚している。

 お松が秀吉の妻となったお禰と親しかったことから、秀吉とも懇意にしていたという。ただ、家格からすれば、利家のほうが秀吉よりもはるかに高い。秀吉が足軽組頭となってからの付き合いだったとみられる。

前田利家誕生の地父・利昌の居城・荒子城跡に立つ碑。この地には利家によって再建された荒子観音の本堂がある。

 利家は4男であったが、武将としての力量があったのだろう。信長の命により、兄・利久に代わって前田家の家督を継いだ。そして、信長が北陸地方を平定すると、越前府中城主を経て能登七尾城主になっている。

 本能寺の変後は、与力として柴田勝家に従っていたが賤ヶ岳の戦いでは秀吉に味方する。以後は、秀吉の天下統一を支え、豊臣政権の五大老になった。しかし、利家の死後、跡を継いだ利長は徳川家康に屈服し、江戸時代には加賀藩主となっている。

前田速念寺前田氏発祥の地とされ、境内には前田城跡の石碑が立つ。本尊は利家が寄進した阿弥陀如来。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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