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名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅

清正と正則と利家 ─豊臣秀吉を支え、ともに名古屋から飛躍した仲間たち─

名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅⑤

史上最大の出世を果たした豊臣秀吉。その秀吉を尾張時代から支え、力となり、また切磋琢磨しながら天下へと飛翔した加藤清正・福島正則・前田利家という同志たちがいた。

加藤清正/名古屋市秀吉清正記念館蔵

■秀吉が信頼できる尾張の同胞たち

 豊臣秀吉は、織田信長の小者(こもの)として仕え始めた。小者とは、武家奉公人としては最も低い身分であり、当然、家臣などいるはずもない。その後、秀吉は信長に重用されるようになり、足軽(あしがる)組頭へと出世していく。そうしたなか、秀吉にも家臣が必要になっていった。

 ただ、すでに秀吉は父の弥右衛門(やえもん)を失っており、継父の竹阿弥(たけあみ)は同朋衆だった。同朋衆は、芸能などで仕えていたものであり、竹阿弥の一族は、秀吉の家臣にはなっていないようである。

加藤清正の虎退治豪傑として知られる加藤清正。晩年の秀吉の野望であった明征服の出兵の際、朝鮮で虎退治をしたという逸話を残す。「朝鮮之役二清正猛虎ヲ撃」名古屋市秀吉清正記念館蔵

 秀吉は永禄4年(1561)、25歳でお禰(高台院)と結婚した。お禰は信長の足軽組頭・浅野長勝の養女で、このとき14歳である。このお禰との血縁から、浅野長政や木下家定が秀吉の家臣となっている。ちなみに、浅野長政は浅野長勝の娘婿、木下家定はお禰の実兄にあたる。また、前田利家とは、お禰が利家の妻・お松と親しかったことから、懇意にしていたという。

加藤清正の生誕地名古屋市中村区の妙行寺に立つ清正生誕地の碑。秀吉の縁戚とされ、秀吉生誕地の碑も近くに立つ。

 ただ、彼らはいずれも秀吉とは同年代であり、子飼いの家臣というわけではない。そうしたなかで、近習として取り立てていたのが加藤清正と福島正則である。清正と正則は、いずれも秀吉の縁者であった。調略を得意として信長に仕えていた秀吉にとって、若かりし頃から関係のあった身の回りの武士しか信頼できなかったのかもしれない。
 秀吉が出世していくに従って、秀吉の周りの武士も、飛躍していくことになったのである。

 

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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