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名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅

清正と正則と利家 ─豊臣秀吉を支え、ともに名古屋から飛躍した仲間たち─

名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅⑤

■加藤清正とはいかなる人物か!? 史料から見る尾張時代

賤ヶ岳の戦いで活躍した加藤清正清正の名を一気に戦国の世に轟かせた賤ヶ岳の戦い。その活躍ぶりから秀吉に「一番槍」として称えられ、感状と恩賞を受けたという。『賤ヶ峯大合戦之図』提供/古美術もりみや

 加藤清正の若かりし頃の実像は、史料がほとんど残されていないため、詳しいことはわかっていない。清正の一代記『清正記』や『続撰清正記』には、清正の生い立ちについて、次のように記されている。清正の先祖は、もともと犬山に住んでいて、清正の祖父にあたる加藤清信は美濃の斎藤道三に仕えていた。

 しかし、道三と信長の父・織田信秀が犬山城をめぐって戦ったとき、清信は討ち死にしてしまう。そのため、清正の父は尾張国愛知郡中村に逃れて成長し、永禄5年(1562)、清正が生まれた。清正の母は、秀吉の母の従姉妹であったという。清正は3歳で父と死別し、そのまま中村で育った。

 幼少のころの清正が、どのような暮らしをしていたのかはわからない。『加藤家傳清正公行状』によれば、幼い頃の清正には、森本義太夫と飯田覚兵衛という幼馴染がいて、竹馬などをして遊んでいたという。まさに竹馬の友といえる間柄であったが、あるとき、木刀の試合の結果で主従の契りを結ぼうということになり、この試合に清正が勝った。そこで清正が森本義太夫と飯田覚兵衛の2人を家臣にしたというが、この逸話を山城国のできごとであるとしており、にわかには信じがたい。

 一説には、父の死後、母の縁戚を頼って津島に移り住んだともいうが、天正元年(1573)、清正は秀吉のもとに預けられることになった。秀吉はこのとき、信長から北近江の戦国大名・浅井長政の遺領を与えられ長浜城主になっていたところである。清正の母は、子どもの将来を秀吉に賭けようとしたのかもしれない。清正の母が秀吉の母に頼み込み、清正を秀吉に会わせたという。そして、そのまま清正は、秀吉のもとに預けられることになった。清正が12歳のときのことということになる。

清正公堂清正生誕地・妙行寺の境内に立つ清正公堂には「加藤清正公御尊像」が安置され、年に1度御開帳もある。
写真提供/(公財)名古屋観光コンベンションビューロー

 こうして尾張から近江に移った清正は、秀吉の母に育てられたらしい。15歳になったとき、「我、御陰を以もって成人仕り、歳は十五といへども背も高し、前髪落し奉公も勤可申」と秀吉の母に訴えた。15歳だが背も高いので秀吉に奉公したいというのである。これを聞いた秀吉は、たいそう喜び、清正を元服させると、170石を与えたという。

 その後、秀吉は信長から中国平定を命じられ、清正も従軍した。天正9年の鳥取城攻めで初陣を飾った清正は、武将としても名を挙げた。天正11年の賤ヶ岳の戦いでは「七本槍」のひとりに数えられる活躍をし、近江・山城・河内国内などで3000石を得ている。さらに九州平定後は肥後北半国19万5000石の領主となり、熊本城を居城とした。文禄・慶長の役で軍奉行を務めていた石田三成と対立したことから、秀吉の死後は三成と距離をおく。そして、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方をして肥後一国52万石の太守となった。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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