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小手森城(おでもりじょう)攻め1585年<その1>~覇道を狙う若き伊達政宗と反対勢力の攻防

戦国武将の城攻め【解体新書】#021

家督を継いだ若き政宗が攻め入った「きこりの城」

政宗から寝返った大内定綱の支城・菊池顕綱(きくちあきつな)守る小手森城

 小手森城跡のある福島県二本松市針道(はりみち)は、「中通り」と呼ばれる県中央の縦に細長い平地帯の東端にあたる。小手森城は、その地で「愛宕森」(あたごもり)と呼ばれるエリアの、100mほどの比高の小丘に築かれた山城だった。

 

 大した規模ではないが、山頂の100m四方ほどの本丸のほか、東北の尾根に階段状の曲輪が配置され、土塁、空堀(からほり)、帯郭(おびぐるわ)などがめぐらされていた。周囲の傾斜は急で麓は湿地のため、北東方面から攻めるしかルートがない。

 

 現在本丸跡には愛宕神社の小さな社があるが、この別称が「樵明神」(しょうみょうじん)だったことからも、かつての城砦(じょうさい)には木造の小屋に木柵程度の簡素な建造物しかなかっただろう。

 

 城を築いたのは名族・吉良氏の一門に属する石橋氏らしい。その後、石橋氏の配下だった大内定綱(おおうちさだつな)が城を奪った。

 

 定綱は三春(みはる)の田村氏に従っていたが、徐々に独立を志向するようになり、天正10年(1582)に米沢の伊達輝宗(だててるむね)に誼(よしみ)を通じると、翌年、田村清顕(たむらきよあき)との戦いに勝利して宿願の独立を実現した。

 

 だが、天正12年(1584)に輝宗が嫡子の政宗に家督を譲ると、定綱の立場は微妙なものとなる。

 

 政宗の正室・愛姫(めごひめ)が田村清顕の娘だという単純な閨閥(けいばつ)の義理だけでなく、南方への進出の野望に燃える政宗としては、定綱よりも田村氏のほうが戦略的に重要だったのだ。

 

 定綱は政宗の家督相続の祝いに米沢へ伺候(しこう)し、

 

「ささいなことで田村殿といさかいを起こしてしまいました」

 

 と弁解して米沢に屋敷を賜れば妻子を住まわせたいとまで申し入れた。臣従(しんじゅう)して人質を出すというのだ。

 

(次回に続く)

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橋場日月(はしばあきら)
橋場日月はしばあきら

大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『戦国武将の必勝マネー術』(講談社)、『戦国武将の兄弟姉妹たち』(辰巳出版)、『戦略は日本史から学べ』(クロスメディア・パブリッシング)など。

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