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小谷城攻め1570〜73年<その3>~上洛途上の信玄が病没、巻き返しの好機を失う浅井・朝倉勢

戦国武将の城攻め【解体新書】#011

姉川合戦以来の頼みだった朝倉氏の崩壊で孤立無援に

浅井氏の頼みの綱であった朝倉義景 東京大学史料編纂所所蔵模写

 

 元亀元年(1570)から3年余の間、浅井長政は小谷城での籠城戦を耐え抜き、元亀4年(1573)、甲斐の武田信玄が上洛作戦を開始することにより、巻き返しの好機を迎える。

 

 しかし元亀4年4月、頼みの武田信玄が上洛の途次に病没することで、その運命は暗転する。

 

 7月、将軍義昭を追放し、室町幕府の息の根を止めた信長は、江北に侵攻して小谷城を囲んだ。

 

 これに対して8月、浅井長政を背後から支える朝倉義景が、2万の軍勢を率いて小谷城に駆けつける。

 

 ちなみに浅井・朝倉連合というのは、セットで呼ばれることが多いのだが、朝倉家の実稼働兵力2万余に対し、浅井家はその2分の1程度の兵力しか有していない。

 

 つまり長政が信長に対抗していくためには、朝倉家の支援が必須なのである。

 

 小谷山の西尾根に築いた砦群に前衛部隊を入れた義景は、その北方の余呉や木之本に陣を布き、織田方との対陣に入った。

 

 織田勢が小谷城に攻め掛かれば、朝倉勢が即座に後詰するという態勢である。

 

 おそらく義景は、信長と決戦するつもりはなく、ひとまず小谷城周辺から織田勢を追い払うつもりでいたと思われる。

 

 一方、信長としては、この戦いで小谷城を攻略する、ないしは浅井・朝倉連合を壊滅することを目論んでいたのであろう。しかしそれが叶っても、織田軍が痛手を負ってしまっては困る。

 

 そこで信長は発想を転換する。

 

 実は信長は、実戦においては、朝倉勢よりも浅井勢の方が手強いことを、姉川合戦や志賀の陣などを通して知っていた。

 

 武将としての求心力が、義景よりも長政の方が勝っていたのである。

 

 常の将であれば、分限が少ないことや地理的に近いことから、浅井家を倒すことを第一に考えがちであるが、信長は違った。

 

 8月12日、突如として信長は、朝倉勢の守っていた小谷山西尾根の山崎・福寿の両砦に奇襲を掛け、これらを落とす。翌日には、同じく朝倉勢が守っていた丁野城も落城に追い込み、大嶽城を自落させた。

(次回に続く)

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伊東 潤(いとう じゅん)
伊東 潤いとう じゅん

1960年生まれ。2012年『城を嚙ませた男』13年『国を蹴った男』で直木賞候補。『黒南風の海』で「本屋が選ぶ時代小説大賞2011」を受賞。著作に『叛鬼』『義烈千秋』『武田家滅亡』『戦国鬼譚 惨』など。利休の内面と死の真実挑んだ最新刊「茶聖」(幻冬舎)が2020年2月20日発売!

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