日向・鵜殿岩屋で開眼した「陰流」の始祖<愛洲移香斎> ─剣で戦い抜いた男─
【日本剣豪列伝】剣をもって生き、闘い抜いた男たち<第2回>
戦国時代。剣をもって戦場を往来し、闘い抜き、その戦闘形態が剣・槍・弓矢から鉄砲に変わっても、日本の剣術は発達し続け、江戸時代初期から幕末までに「剣術」から「剣道」という兵法道になり、芸術としての精神性まで待つようになった。剣の道は理論化され、体系化されて、多くの流派が生まれた。名勝負なども行われた戦国時代から江戸・幕末までの剣豪たちの技と生き様を追った。第2回は「隠流(かくれりゅう)」の始祖である愛洲移香斎(あいすいこうさい)。

「太刀 銘 来国光 嘉暦二年二月日」
(たち めい らいくにみつ かりゃくにねんにがつにち)
来国光は来国俊に続く来派の名手で、14世紀前半に京都で活躍した刀工。太刀・短刀とも作品が多く現存している。この太刀は直刃調の作風で、小板目の地鉄が国光の作品の中でも特によく冴えている。東京国立博物館蔵、出典/ColBase
「愛洲」という珍しい姓だが、その出自を辿れば、生国は伊勢。村上源氏だと伝わる。愛洲家は室町時代・南北朝の頃には北畠氏に属し、移香斎の父祖は南朝方として戦った。移香斎は、足利義政(あしかがよしまさ)時代の享徳元年(1452)に生まれた。愛洲太郎久忠(ひさただ)という。年齢でいえば、塚原卜伝(つかはらぼくでん)よりも37歳年長になる。
『家伝』によれば、戦国の世に生を受けた久忠(移香斎)は、剣術の道を志し武者修行に諸国を歴訪し、日向国(ひゅうがのくに)宮崎に住んだ」などとある。移香斎が成年に達した時代は「応仁の乱」の頃。剣の道に志を立てたのも当然であったろう。しかし、諸国を巡っても自分が目指す剣の道に達しない、悟りにも達しない。廻り巡って九州南端にまで辿り着くと、日向・鵜殿岩屋(うどのいわや)に籠もり神仏に祈願を込めた。
神殿の前に座り、香を焚いて祈り続けること21日。その満願日の朝、移香斎の頭の上から1匹の蜘蛛(くも)が降りてきた。眼前に現れた蜘蛛を取り除こうとして、移香斎は手を伸ばした。だが、蜘蛛は逃げる。押し付けて潰そうとしても堅すぎて潰れない。やっと掴まえたかと思ったら、たちまち指から抜けてすっと高いところに移る。前にいるかと思ったら、消えて後ろにいる。
何とか、この蜘蛛を取り除こう、として移香斎は手足を動かし続けた。その瞬間、移香斎の心に閃(ひらめ)いた。「ここに剣の道の秘密があったのではないか」。そう思った時、移香斎の目の前にいた蜘蛛が、人間の、しかも老人の姿に変わった。驚いた移香斎は、カッと目を見開く。老人は笑顔で語り掛けた。「そなたの熱意に打たれた。この剣技を授けよう」。移香斎は、はっとしてその老人の正体に気付いた。「神に違いない」。そして、この剣技の名称を尋ねた。
老人(神)は「うむ。陰の流れ、という。その意味するところは、外見に現れた人の動きや剣の技とは、陰陽の陽という。しかし、目に見えない心の動きこそ陰であり、見えない心で見ることが陰の流れである。以後そなたは、この陰の流れを剣技として生きよ」と答え、ふっと消えた。
移香斎は考えた。「陰の流れは見えない心で見ること・・・。つまり」。移香斎が掴んだのは、見えない心で相手の意図を読み、相手の動きに応じて動く。そういうことであった。まさに蜘蛛の動きこそが、陰の流れの極意であった。
剣の構えを用いずに、構えなきをもって「構え」とする。それまで誰もが基本としてきた兵法(剣法)に見る「強い力」と「早い技」に頼らない剣技。移香斎はこの時「陰流」を身に付けたのであった。
移香斎は、天文7年(1538)に没した。87歳という驚異的な長寿を全うした。そして、移香斎の「陰流」は、上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)に引き継がれ、「新陰流」として代々続いていく。この上泉信綱が「陰流」を継承したことで、愛洲移香斎の名前は「剣豪史」に残されてと言ってもよい。