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土方の遺品を北海道から届けた新選組隊士「市村鉄之助」の人生とは⁉

新選組隊士の群像【第11回】


「新選組」は、池田屋事件、禁門の変など幕末の京都で、戦い続けその間に、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)など多くのスター剣士を誕生させたが、名もなく死んでいった隊士や、活躍したもののあまり知られていない隊士も数多い。そうした「知られざる新選組隊士」の前歴や入隊の動機、入隊後の活躍、関わった事件や近藤・土方らとの関係、その最期まで、スポットを当ててみた。第11回は土方歳三の小姓で、五稜郭の戦いを生き延びた市村鉄之助(いちむらてつのすけ)。


戊辰戦争の最後の舞台となった函館五稜郭。星形の輪郭をした洋式城郭で、幕末にロシアなど海外列強の攻撃に備えて築城された。土方歳三をはじめ、新選組の生き残りの多くは、この戦場で壮絶な最期を迎えた。

 市村鉄之助(1854~77?)は、美濃・大垣生まれ。新選組には慶応3年(1867)7月頃から10月頃の間に入隊したと思われる。この時、僅か15歳であったという。市村は、入隊後は土方歳三付きの従者となり、小姓のような形でその後の新選組の戦いに参加した。

 

 新選組が江戸に戻ってから後の、会津戦争、箱舘(はこだて)・五稜郭(ごりょうかく)での戦いにも土方に従って戦った。

 

 そして明治2年(1869)4月、五稜郭が陥落する直前のことである。市村は、敬愛する土方に呼ばれた。すでにこの時、戦死を覚悟していた土方は、いくつかの品物を市村の前に置いた。それからこう述べたという。

 

「ここには、俺の写真、毛髪、長い間使ってきた脇差、それに辞世の歌などがある。これを武藏国(むさしのくに)日野宿の義兄・佐藤彦五郎(さとうひこごろう)殿に届けてくれぬか」

 

 佐藤彦五郎は、土方の姉・のぶが嫁いでおり、土方には義兄というよりむしろ本当の兄のような存在であった。

 

 市村は、五稜郭で最後まで土方と共に戦うと決めてあったから、その命令を拒もうとした。しかし、土方は「俺が今、こうしたことを依頼できるのはおまえしかいないのだ。このまま、もしも戦死したら、俺の遺品は誰が故郷に届けてくれるのだ?これは命令だ。今すぐに支度をし、これを持って発ってくれぬか」と再度、きつい声で申し渡した。

 

 市村は命令には逆らえない、として土方が手渡した品物を厳重に包み込んだ風呂敷を持つと、立ち上がった。この時、市村はまだ16歳の少年であった。

 

 実は、土方は16歳の少年隊士・市村鉄之助を討ち死に必至の戦いに巻き込むのは忍びない、という恩情もあった。市村は土方によって横浜に出港する外国船に預けられた。これが土方と市村の永遠の別れになった。

 

 横浜から東京に出た市村は、それからほぼ2カ月を掛けて7月下旬、目指す日野宿・佐藤家に着いた。ボロボロの着物を身にまとい、敗れ掛けた手拭いを被った少年が、佐藤家の庭先に立っていた。市村は出てきた彦五郎に「使いの者の身の上、頼み申し上げ候 義豊」という紙片と共に土方の写真、遺髪、辞世の和歌などを手渡した。義豊(よしとよ)は土方の諱(いみな)。この写真が断髪・洋装の土方の遺影である。また土方の辞世は「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」。守るべき東の君とは「将軍・慶喜」のことであろう。

 

 市村は、佐藤家で3年ほど世話になった後、佐藤家の使用人に送られて美濃の故郷に戻った。そして明治10年(1877)、西南戦争が起きると、鹿児島に赴き、西郷隆盛(さいごうたかもり)軍に身を投じ、戦死したと伝えられる。だが、故郷で病死したなどの説もある。西南戦争で戦死していれば享年23である。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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