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新選組に関するエピソードやその勇姿を書き残した才人隊士「中島登」が歩んだ道とは⁉

新選組隊士の群像【第10回】


「新選組」は、池田屋事件、禁門の変など幕末の京都で、戦い続けその間に、近藤勇、土方歳三など多くのスター剣士を誕生させたが、名もなく死んでいった隊士や、活躍したもののあまり知られていない隊士も数多い。そうした「知られざる新選組隊士」の前歴や入隊の動機、入隊後の活躍、関わった事件や近藤・土方らとの関係、その最期まで、スポットを当ててみた。第10回は新選組隊士の姿を絵画に残した中島登(なかじまのぼり)。


 

「甲陽鎮撫隊」として甲府城の攻略に向かった新選組だが、勝沼で遭遇した新政府軍との戦い敗れ、その軍勢は崩壊。この戦いに中島は参加しており、以降は土方歳三に従い、各戦場を転戦したとされる。写真は現在の甲府城。

 

 中島登(1838~87)は、武藏国多摩郡は八王子の生まれ。八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)の一員・中島又吉の長男。剣術も天然理心流である。近藤勇の遠縁ともいわれるが、出身地と剣術流派を見れば納得が行く。その入隊は、慶応3年(1867)の江戸での隊士募集に応募した時、とされる。しかし、本人によればその数年前に近藤の要請で武州・相州・甲斐の3ヶ国を探索したともいう。また、千人同心組で同僚を斬って脱退し、後に京都に上って新選組に入ったともされる。

 

 そうした意味では、近藤に関係ある人物ということ以外に、かなり謎の多い隊士ともいえる。ただし。中島の仕事で後世に残る2つが有名である。

 

 1つは『中島登覚書』といわれる新選組に関するエピソードや戦史を描いた文書と、もう1つが『戦友絵姿』という題名で描いた新選組隊士の肖像集である。この2冊の貴重な遺品(新選組資料)ゆえに中島登の名前は新選組隊士として、長く記憶されることになった。同時に、中島の才人ぶりを後世に遺すことにもなった。

 

 中島登が新選組に入隊してから、江戸に帰るまで中島の隊士らしい勇ましい活躍はほとんど知られることはない。もっとも、記録に残るような活躍をしなかった、ともいえる。しかし、江戸に戻ってから近藤らは甲府城を押さえるために「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」を組織して甲州に向かったが、その一員として中島もその中にいた。この際の新政府軍との戦い(勝沼戦争)で敗れた近藤らは江戸に戻るが、近藤は逮捕され板橋で処刑された。

 

 中島は、さらに土方らと行動を共にして関東以北における新選組同志の行動をつぶさに書いたのが『覚書』となった。『覚書』は、甲陽鎮撫隊が甲州に向かった慶応4年3月1日から始まり、箱舘戦争の終結前夜までが正確な筆致で綴られている。

 

 中島自身は、箱舘・弁天台場で降伏し、囚われの身となった。その後、囚人として青森・明誓寺、弘前・薬王院、青森・蓮華寺などに転々と移された。その間に『覚書』は記された。

 

 その前、箱舘で降伏した後に中島は弁天台場で亡き新選組隊士らの面影を偲びながら、その姿を描いた。それが『戦友絵姿』であり、ここには近藤・土方・斎藤一らの姿が絵草紙のような煌(きら)びやかさで描かれている。29枚が現存しているが、現在まで雑誌などの「新選組特集」で使われるほど貴重な資料となっている。 

 

 明治3年(1870)4月、箱舘での禁固を解かれ一旦は静岡に引き渡された。その後は浜松に居を定め、好きだった園芸を行う。観賞用の蘭では大儲けをしたという。明治17年(1884)に浜松で銃砲店を開いた。こうして余生は新選組とは無縁のまま送り、明治20年4月2日、生涯を閉じた。享年49。

 

 中島は自身について『覚書』では「砲弾の下を潜ること31回。白兵戦は7回。しかし、ついに無疵」と記している。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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