戦国九州の伝説の死闘地となった岩屋城【福岡県太宰府市】─語り継がれる玉砕戦─
城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第29回
九州の戦国時代は数々の豪将たちによって群雄割拠となった。その戦乱のなかで、巨大な勢力を幾度にもわたって跳ね返した名城がある。高橋氏の岩屋城だ。この城には語り継がれる死闘の話も残る!
■息子たちのために玉砕した勇将の碑が残る名城

主郭から太宰府市街を望む。中央の平坦地が大宰府政庁跡。
岩屋城は、福岡県太宰府市に所在する山城である。城は、標高410メートルの四王寺山の山腹に築かれている。ちなみに、この四王寺山は最高点のある大城山(大野山)を中心に岩屋山・水瓶山・大原山と呼ばれる4座の総称で、岩屋城は、このうちの岩屋山に築かれている。
現在、四王寺山一帯は福岡県によって「四王寺県民の森」として公園化されている。自動車道路はもちろん、ハイキングコースも整備されているため、多くの人々が訪れるレジャースポットともなっている。城跡も、破壊されている部分もあるが、土塁や堀が残されている。
岩屋城のある太宰府市には、かつて、大宰府がおかれていた。大宰府とは対外関係を担うとともに、九州の内政を統括した地方機関である。古代の日本が白村江の戦いで唐(とう)・新羅(しらぎ)の連合軍に敗れた直後、朝廷は大城山に大野城(おおののき)を築いている。もちろん、大宰府を守るためだった。

主郭直下の堀切。現在は登城路に活用されている。
結局、唐・新羅が日本に攻めてくることはなかったが、大宰府は外港である博多とともに、九州の中心として発展していった。モンゴルが攻めてきた文永の役・弘安の役でも、鎌倉幕府軍は、この大宰府を死守し、モンゴル軍を撃退している。
戦国時代になると、北九州には毛利元就(もうりもとなり)が進出を図ろうとしており、豊後国の大友宗麟(おおともそうりん)との間に争奪戦が繰り広げられていく。このとき、大友宗麟は家臣の高橋鑑種(たかはしあきたね)を大宰府におき、宝満城の城督とした。城督というのは、城の持ち主である城主とは異なり、城を預かっている武将を指す。岩屋城はこのとき、高橋鑑種によって宝満城の支城として築かれたとみられる。

大友宗麟の子・義統
キリシタン大名として知られている大友宗麟だが、その武勇は九州の三強に入るほどの実力者。一時は、北九州6ヵ国を支配した。義統は父とともに6ヵ国統治を支えた。(東京都立中央図書館蔵)
大友宗麟は、この宝満・岩屋両城によって筑前支配を行うとともに、大宰府を守り、毛利氏による侵略を食い止めようとしていた。ところが、こともあろうに宝満・岩屋城督の高橋鑑種が大友宗麟から離反して、毛利元就に通じてしまう。このため、高橋鑑種は大友宗麟によって追放され、替わって吉弘鎮理が高橋氏を継いで宝満・岩屋城督となる。これが、高橋鎮種(しげたね)で、出家してからの号である紹運(じょううん)の名で知られている。
高橋紹運は、立花城督の立花(戸次)道雪とともに、筑前国における大友氏の覇権を担った。ちなみに、紹運の嫡男・宗茂は、道雪の希望により、道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)の婿養子となったため、高橋氏の家督は次男の直次が継いでいる。
こうして、高橋・立花両氏の活躍により、毛利氏は北九州支配を断念することとなり、大友氏は九州統一も視野に入るほどの勢力をもつことになった。
しかし、天正6年(1578)、日向国に出兵した大友宗麟が、いわゆる耳川の戦いで薩摩国の島津義久に敗れてしまう。以後、大友氏の勢威は弱まり、逆に島津氏の勢威が強くなっていく。島津氏の圧力に耐えかねた大友宗麟は、豊臣秀吉に支援を要請せざるをえなくなってしまったのである。
天正13年(1585)、関白となった豊臣秀吉は、正親町天皇の勅命を奉じて大友・島津両氏に停戦を命じ、領土を裁定している。ところが、島津氏は裁定を拒否し、大友氏に対する攻撃を決めたのだった。当然、島津氏は、秀吉による征伐を想定していたことは言うまでもない。翌天正14年(1586)、豊臣の軍勢を九州に上陸させないため、島津氏は大友方となっている北九州の制圧に乗り出したのである。
肥前国の筑紫広門(ちくしひろかど)を勝尾(かつのお)城で降伏開城に追い込んだ島津軍は、筑前国に侵入すると、5万余の大軍で岩屋城を包囲する。このとき、高橋紹運は、次男の直次に宝満城を任せると、自ら最前線の岩屋城に籠城したのだった。しかし、城兵は700余しかいなかったという。結局、衆寡敵せず、紹運は本丸で自刃、城兵100余名が全員が打って出て戦死したと伝わっている。

主郭に立つ「嗚呼壮烈 岩屋城址」の石碑。高橋氏家臣の子孫によって建てられた。
紹運の辞世は、『陰徳太平記』などにみる「流れての 末の世遠く 埋(うず)もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水(したみず)」と、『高橋記』などにみる「屍(かばね)をば 岩屋の苔に 埋(うず)みてぞ 雲居の空に 名をとどむべき」という2首が伝わっている。どちらも事実かもしれないし、どちらも創作かもしれない。
それはともかく、現在、城跡には紹運の墓とともに「流れての 末の世遠く 埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水」の句碑が建てられている。

城跡に建てられている高橋紹運の墓。