徳川幕府の日本銀行・金座の当主であった造幣ブレーン「後藤庄三郎」とは?
「どうする家康」 天下人の選択をささえたブレーンたち 【第12回】
幕府を開府した家康にとって、戦いにしか能力を発揮できない武断派家臣の価値は低下。代わって吏僚(りりょう)と呼ばれる経済、法政、土木などインフラ整備に能力を発揮できる家臣たちが重用された。今回は家康の金融政策の片腕となった後藤庄三郎(ごとうしょうざぶろう)の事績を浮き彫りにする。

徳川家康に仕えた20人の主要家臣団を描いた絵画。これ以外にも多くの作品があり、描かれた武将、その数も異なる。「徳川二十将図」出典/ColBase(https://colbase.nich.go.jp/) など
徳川幕府にとって、現在の日本銀行に当たるのが「金座(きんざ)」であった。家康は、軍事・財政・民政ともにそれぞれのブレーンによって体制固めを図った。特に財政面では、京都の商人たちを上手に使った。その中に、茶屋四郎次郎清次(ちゃやしろうじろうきよつぐ)がいて、大工頭(だいくがしら)の中井正清(なかいまさきよ)や堺の政商・今井宗薫(いまいそうくん)などがいた。
後に金座(現在でいえば日本銀行のような存在)を一手に引き受けるのが後藤庄三郎光次(みつつぐ)であった。庄三郎は、秀吉が長崎を直轄領とした際に町年寄として長崎市内を支配した。その後、京都に戻っている。引き続き長崎奉行の長谷川藤広(はせがわふじひろ)を支援して対外貿易に関わり、金・銀座を支配して貨幣の鋳造(ちゅうぞう)に当たる傍ら、その人脈を生かして家康に尽くし、大坂冬の陣では本多正純(ほんだまさずみ)とともに講和交渉にも奔走した。
だが、庄三郎は最初から「後藤」姓ではなかった。美濃出身の橋本氏とか、近江出身の山崎氏など諸説があるが、不明のまま。ただ、京都の彫金師・後藤徳乗(ごとうとくじょう)の手代であったことは確かである。
文禄4年(1595)、家康は武田氏の金貨本位の幣制に倣(なら)い、大判・小判などの鋳造(ちゅうぞう)を天下人の秀吉に申請し、許可を得た。家康は徳乗を招いたが、徳乗は「江戸のような田舎には行きたくない」として病と称して、手代の庄三郎を代理として送った。その際に「一代限りだが」と庄三郎に「後藤」姓を名乗ることを許した。その見返りに、徳乗は庄三郎に「毎年、黄金3枚を贈る」約束をさせた。
この当時、判金(大判・小判)といえば大判のことであったが、家康は流通貨幣としては小判も必要と考えていたから「1両小判」を鋳造させる案も持っていた。現存する小判として「武藏壱両光次」の花押が墨書された「武蔵墨書小判(むさしすみがきこばん)」が有名だが、これが家康の命令によって庄三郎が鋳造した最初の貨幣(関八州通用の徳川家領国貨幣)である。
小判は慶長5年(1600)から極印(ごくいん)が打たれるようになるが、それまでは墨書小判であった。
家康が征夷大将軍に就任後に、庄三郎は「御金銀改役(ごきんぎんあらためやく)」に任命され、小判と一分判を鋳造する。鋳造した貨幣を検定し、これに極印を打ち、一定の品位・重量・形状を保証するのが、後藤庄三郎の役割であった。
文禄4年の江戸下向後に、庄三郎は家康から江戸本町1丁目を拝領し、ここの後藤屋敷を建設。屋敷内に小判の極印を打つ後藤役所を設けた。この場所は、現在の日本橋本石町・日本銀行本店所在地である。
庄三郎は、関ヶ原合戦の翌年、慶長6年には京都に、慶長12年(1607)には駿府に、また元和7年(1621)には金山のある佐渡に後藤役所出張所を開設して、当地での小判の極家を開始した。こうして後藤庄三郎光次は、家康の造幣・貿易ブレーンとして権力を誇った。庄三郎は寛永2年(1625)7月、54歳で没した。