なぜ、鬼のすみかは「山」が多いのか?
「歴史人」こぼれ話・第36回
「山」が「異界」と繋がる理由とは?
では、その「鬼」が、なぜ「山」をすみかとすると見られるようになったのか? これには正解というものがあるわけではないだろうが、考えられるのは、人々が日常入り込むことの少なかった険しい「山」そのものを、「邪」なる「鬼」が潜む「異界」のように捉えていたことが考えられそうだ。
古来より「山」もまた、里に暮らす人々にとっては、日頃入り込むことの少ない深山溪谷であるがゆえに、そこに潜む得体の知れぬものを恐れた場所だった。一方では「聖」なるところとして崇め奉ることもあったかもしれないが、むしろ「邪」なるものが潜む恐ろしいところと見なされて、畏怖の対象となった方が多かったのではないだろうか。その「邪」なるものが、前述したように様々な要因が積み重なって、今日多くの人が思い描く「鬼」のイメージに仕上がってしまったと考えられるのだ。
では具体的にどのような要因によるものだったのか、もう少し詳しく見てみることにしよう。「山」がどのようなところだったのか見つめ直すことがポイントである。いうまでもなく、そこは、里で暮らす人々にとって馴染みの薄い人々が暮らす世界であった。
具体的には、マタギや炭焼き職人、鍛冶屋、鉱山師などの山の民が、人里離れた山でひっそりと暮らしていた。里人にとっては関わりが少なかったがゆえに、彼らを得体の知れない人々と考えたとしても不思議ではない。
特に鍛冶屋などは、ふいごで目や足を痛めることも少なくなかった。そんな彼らをたまたま目の当たりにした里人が、その姿を恐れたがゆえに、「一本足」や「一つ目」などの鬼と見なされて語り継いだ可能性も考えられる。
また、同じく山中に身を置き、山岳宗教の担い手であった山伏(やまぶし)の風体や言動も謎めいていた。そこから「天狗」や「役小角」(えんのおづぬ)などのイメージが形成されたことも想像できそうだ。
さらに、街道を行き交う人々にとって、険しい峠越えは、体力の消耗以上に危険極まりない難関であった。いうまでもなく、旅人を襲う盗賊が待ち構えていたからである。その盗賊を「鬼」と見なして誕生したのが、前述の「酒呑童子」やその配下の「茨木童子」「羅生門の鬼」などである。
山で遭難して戻れなくなってしまった人たちも、残された人からみれば、何者かに拐(さら)われたか、あるいは雲隠しにでもあったと思われたに違いない。それも「鬼」の仕業と考えられたとしても不思議ではない。
柳田國男が著した『山人考』にも日本各地の山に言い伝えられてきた不思議な出来事が綴られているが、そこには罪を犯したり、何らかの事情によって里で暮らせなくなって山へと逃げ込んだ人々の他、気が触れて引き寄せられるように山へ逃れていった女性たちの姿も描かれている。そんな女性たちも、ボロボロになりながらも何とか生き延び続けたことで、これまた偶然出会った里人から「山姥」(やまんば)と見なされたのではないか。「安達ヶ原(あだちがはら)の鬼婆」や「鬼女紅葉」「雪女」などがその類(たぐい)だろう。