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〝悪人〟と呼ばれた「戦国の梟雄」たちの行動原理は何だったのか?─ダークヒーローたちの真の素顔─

今月の歴史人 Part.4


裏切り、暗殺、調略……。梟雄(きょうゆう)と呼ばれる人物にはそんなイメージが付きまとうが、それらの非道を〝悪〟としたのは江戸時代以降であり、梟雄を語る上での一面に過ぎない。中には都市の礎を築き、地元で愛される武将も多く、再評価されて然るべき武将もいる。そんな梟雄たちの行動原理は何だったのか。


 

■負けたら家臣や家族が滅亡…戦国武将たちは勝たねばならなかった

 

戦国乱世を生き残るため、また家臣や領民のために戦には勝たなければならなかった。

 

 梟雄とは、勇猛ではあるが残忍な武将のことを指す。こうした意味が含まれているため、一般的には悪人という印象がある。主君殺し・親殺・暗殺・毒殺・謀略・調略といった行いによりのし上がった武将が、現在では梟雄と呼ばれている。

 

 ただし、これらの行いが極悪非道と認識されるようになったのは、江戸時代になってからのことである。江戸時代には、幕府によって儒教道徳が広められており、武士の価値観も戦国時代とは異なっていた。

 

 儒教では、社会的な規範を維持することこそが正義と考える。そうした立場からすれば、主君殺し・親殺し・暗殺・毒殺・謀略・調略といった行為は、まぎれもなく悪である。だから、梟雄が悪人とする理解も、あながち間違ってはいない。

 

 しかし、戦国時代には、そのような儒教道徳は広まっていなかった。だから、梟雄らの行いを江戸時代の価値観によって悪と決めつけるのもはなはだ問題である。

 

 そのため近年では、梟雄と呼ばれる武将について、時代意識も含めたうえで見直しが進められている。武将の真の姿を理解するには、やはり、当時の時代背景から探る必要があるだろう。

 

 江戸時代には、幕藩体制が構築され、すでに社会が安定していた。だから、その社会を崩壊させるような考えは、否定されたのである。

 

 しかし、戦国時代には、それぞれの武将が安定した社会の構築を目指していた。そして、社会を安定させるため、戦国武将は、いかなる手段をも用いたのである。

 

 越前朝倉氏の初代となった朝倉孝景(あさくらたかかげ)の子である朝倉宗滴(そうてき)は、「武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候」(『朝倉宗滴話記(あさくらそうてきわき)』)と語ったという。武士は、犬や畜生と罵られようと、いかなる手段をとっても、勝たなければならないというのである。

 

一乗谷朝倉氏遺跡
越前朝倉氏は越前の山奥に「小京都」と呼ばれるほど文化的に繁栄した都市を築き、家臣や領民たちに充実した暮らしを与えた。

 

 戦いに負ければ、戦国武将本人だけでなく、家臣や家族も滅んでしまう。もしそうなれば、社会が根幹から覆され、領民に対する影響も皆無とはいえない。そうならないためには、なにがなんでも勝たなければならなかったのである。

 

 場合によっては、社会の安定のためには、主君や親を討つこともあった。これを下剋上といい、下の地位の者が上の地位の者を討つという意味で用いられている。こうした下剋上すら、戦国時代には許容されていたのだった。

 

 いかなる手段をとっても勝利を求めた武将を梟雄というのなら、梟雄こそ、もっとも戦国武将らしい存在であったと言えるだろう。

 

監修・文/小和田泰経

(『歴史人』2023年3月号「戦国レジェンド」より)

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