伊賀の人々はなぜ「忍者」として生きる道を見出したのか?─伊賀忍者のルーツを探る─
今月の歴史人 Part.3
戦国乱世の闇に紛れて調略・謀略・暗殺という任務に暗躍したとされる伊賀忍者。現在、ドラマや小説に登場し活躍する「忍び」は華やかであり、人とは思えない術を駆使し敵を倒していくが、果たして戦国時代に存在した「忍者」の実像とはいかなるものだったのか。中でももっとも有名な「伊賀忍者」の起源を探っていく。
伊賀・甲賀の里は古くから存在
飛鳥時代から闇を飛び交った
「忍び」あるいは「忍者」と呼ばれた集団があった。そのルーツを辿ると、戦国時代以前から存在していたとされ、古くは飛鳥時代・聖徳太子までも忍び(志能備)を使った、といわれる。まことしやかに、その名前まで「大伴細人」とあり、伊賀か甲賀の者と伝えられるという。
壬申(じんしん)の乱(672)では、大海人皇子(天武天皇)が伊賀の間道を通って近江の大友皇子方を急襲して勝利を収めたが、その際にも伊賀の「多胡弥(たこや)」という忍びが活躍したという。
伊賀忍者の本拠・伊賀(三重県西部)は地続きの近江国甲賀郡とともに、古来から忍びの達者を輩出している。特に伊賀は都に近く、高くはないものの峻険(しゅんけん)で複雑な地形を持つ山々に取り囲まれており、隠れ里でもあった。古代から戦いに敗れた亡命者が隠棲する場所でもあり、そうした意味合いからか伊賀には「名張(なばり)」という地名もある。それは「隠り(なばり・隠れるの意味)」でもあった。伊賀・甲賀のある鈴鹿山脈は山岳信仰の霊場も多く、海外から日本にもたらされた技術・医術・学問などが伊賀にも伝えられている。そうした環境が、伊賀に陰陽師系統の秘術や医学・火薬類(のちには鉄炮集団の発生)に関する知識の吸収に繋がり、様々な要素が集合・融合されて「忍び」という技術が誕生し、伊賀を忍びの里に仕立て上げた。

忍者が修行した「赤目四十八滝」
伊賀忍者たちの修行の地と伝わる滝。大小合わせて48の滝があり、鍛錬に適した岩や藪などが見られる。
戦国時代には各地の武将が
独自に抱えた忍者集団たち
戦国時代は、甲斐・武田信玄(たけだしんげん)は「透波(すっぱ)・乱波(らっぱ)」という異称の忍びを使った。越後・上杉謙信(うえすぎけんしん)は「軒猿(のきざる)」と称する忍者集団を用いたという。相模・北条氏康(ほうじょううじやす)は「風魔(ふうま)一族」という集団を使ったとされる。
他にも、信濃・真田氏のように修験道関係の忍者を使った者もある。また伊賀と地続きの甲賀には「甲賀五十三家」と呼ばれる有力な地侍がいて、結束して有力者に当たったが、甲賀の忍びも徐々に発達し、伊賀同様の「忍び王国」になったのである。
このように49派もあったとされる忍者の流派の中で、最もよく知られ、大きな勢力を誇り、江戸時代まで生き延びたのが「伊賀忍者」であった。ひと言でいえば「忍者とは、ある目的を持って隠密活動を行う」ものだが、その活動を行う技術を「職能」にまで高めた最高の一族が「伊賀忍者」であった。
既に述べたが、伊賀という場所は8里四方(約32キロ平方)ほどの狭い小国の中に国人(地方豪族)がひしめき合っていた。『三国地誌』には「伊賀には300に近い砦や館跡がある」とする。しかも伊賀の人々は反抗心・闘争心が強かった。それは、伊賀のほとんどが奈良・東大寺の荘園だったからで、伊賀の国人たちは結束して東大寺支配に立ち向かった。
こうした経過から、伊賀の人々は国主・領主を持たず、国人たちは同姓・同族単位で生活範囲を固め、配下に農地と農民を組み込んで自治共和体制を作った。掟を定め、自立自営を維持した。この中で最大の組織が「服部一党」であった。
戦国の世は全国に合戦をもたらした。幕府権力は失墜し、下剋上が相次ぎ、乱れる世の中で「忍び」の必要性が増し「職能集団」としての腕が買われた。最も優秀で必要とされたのが「伊賀忍者」であった。
伊賀には忍び集団を束ねる「上忍」があり、その手足になって動く「下忍(実働部隊)」がいて、その中間に下忍を率いる「中忍」がいたという。上忍は3家あったとされ、服部半三(はっとりはんぞう)・百地丹波(ももちたんば)・藤林長門(ふじばやしながと)である。服部家が早い時期に三河・松平(徳川)氏に仕えていたから、戦国期の実質的な伊賀支配は、百地・藤林両家が伊賀の南北を両分して伊賀者支配を行っていたと思われる。
監修・文/江宮隆之