戦国四国のスター・長宗我部元親の人生とその素顔とは⁉─戦国のレジェンド─
今月の歴史人 Part.2
戦国時代、後世にまで名を残した武将たちの中には伝説となっている人物も多く存在する。そのなかのひとり・長宗我部元親の人生について今回は紹介したい。
武力ではなく血縁により対立家を乗っ取り
戦国武将の心情を利用し家名を残す選択をさせた

戦国時代を駆けた武将のなかでも人気の高い元親。四国の覇者として名を残した。
戦国時代の土佐では、一条(いちじょう)氏を筆頭に、長宗我部(ちょうそかべ)氏・本山(もとやま)氏・吉良(きら)氏・安芸(あき)氏・津野(つの)氏などの国衆(くにしゅう)が割拠(かっきょ)していた。長宗我部氏が必ずしも有力だったわけではない。
長宗我部元親(もとちか)の祖父にあたる長宗我部兼序(かねつぐ)は、対立する本山氏と、本山氏に従う吉良氏によって居城の岡豊城(おこうじょう)を攻められ、自害に追い込まれている。このとき、元親の父にあたる国親(くにちか)は、岡豊城から逃れ、中村の一条氏の支援により復帰を果たしたのだった。こうしたなか、家督を継いだ元親は、仇敵(きゅうてき)の追討に乗り出す。
永禄6年(1563)に吉良宣直を服属させると、その娘を娶っていた元親の弟・親貞(ちかさだ)に吉良氏の名跡を継がせた。つまり、吉良氏を長宗我部氏の一門にしてしまったのである。
その後、本山貞茂(さだしげ)を服属させると、これもまた、長宗我部氏の一門として家臣に取り込んだ。貞茂の母が元親の姉であり、元親にとって甥にあたるためである。貞茂には偏諱を与え親茂(ちかしげ)と改名させた。
その後、安芸氏を武力で滅ぼした元親は、自らの3男・親忠(ちかただ)を養子として津野氏に送り込む。親忠に津野氏の家督を継承させることで、強引に津野氏を長宗我部氏の一門にしてしまったのである。
このようにして、元親は自らの子弟を養子として送り込むことで、なかば強引に土佐を平定していった。もちろん、それぞれの家は喜んで養子を迎え入れたわけではなく、家名の断絶と天秤にかけた上で判断したに過ぎない。元親の要求を拒めば、武力で滅ぼされることになってしまう。しかし、養子を受け入れる形で降伏すれば、家名だけは残すことができるというわけである。
基本的に、戦国武将が命がけで戦ったのは、家名を残すためだが、そうした戦国武将の心情を、元親はうまく利用したといえる。
天正3年(1575)には、かつて祖父・兼序を庇護してくれた一条氏を土佐から追放し、土佐一国を平定した。さらには、阿波・讃岐をも押さえ、伊予もほぼ制圧するに至っている。わずか一代で四国を制圧できたのも、土佐平定で兵力を損耗(そんこう)しなかったことが大きい。

四万十川
九州に逃亡した一条兼定が中村に戻り長宗我部元親と四万十川を挟んで対決した。
元親は、長宗我部氏の勢威を拡大する段階では、家臣の心を摑んでいた。しかし、豊臣秀吉に敗北してからは、影響力は衰えていたらしい。とくに、嫡男の信親を失ってからは家臣と衝突することも多く、反対する家臣を粛清するなどしていた。
結局、元親の推す4男の盛も り親ち かが家督を継ぐものの、関ヶ原の戦いで西軍につき、長宗我部氏は滅亡することになってしまった。

長宗我部元親の年表
監修・文/小和田泰経