戦国のレジェンド─伊達政宗とはどんな人物だったのか、改めて読む─
今月の歴史人 Part.1
戦国時代、後世にまで名を残した武将たちの中には伝説となっている人物も多く存在する。そのなかのひとり・伊達政宗の功績について今回は紹介したい。
■「撫で斬り」や父殺しを強行した伊達政宗の狂気

伊達政宗「独眼竜」の名で戦国の世に名を轟かせた戦国時代を代表する武将である。
伊達氏が本拠としていた米沢周辺は、蘆名(あしな)氏や最上(もがみ)氏、相馬(そうま)氏などの諸氏族が割拠して小競り合いが続くところであった。米沢城主で伊達氏16代目当主であった伊達輝宗(てるむね)も、彼らとの同盟関係維持や氏族間の紛争処理など、外交活動に精を出して、その均衡を保つことに尽力していたようである。出羽山形の最上義守(よしもり)の娘・義姫(よしひめ)を娶ったのも、対立する最上氏との仲を取り持つための政略結婚であったことはいうまでもない。
永禄10年(1567)、この輝宗と義姫との間に生まれたのが、梵天丸(ぼんてんまる)こと後の政宗であった。尾張・美濃を領有する織田信長が、上洛を果たして天下取りに邁進(まいしん)しはじめた頃のことである。ただし、梵天丸5歳の時、疱ほう瘡そうを患った挙句、右目を失明。白濁して大きく飛び出すようになってしまった。この容貌を母が嫌い、満足に愛情を注がれなかったことも、政宗の性格形成に大きな影を落としたとも考えられそうだ。後世、政宗が史上稀なる残虐(ざんぎゃく)行為に及ぶようになったのも、この辺りに遠因を求めることができるのかもしれない。
ともあれ、政宗の苛烈な性格によるものと思われる事件が、18歳で家督を継いだ翌年の天正13年(1585)8月に起きた。伊達傘下であった小浜城主・大内定さだ綱つなと対立した政宗が、小浜城の支城・小手森(おでもり)城(福島県二本松市)を総攻撃した時のことである。8000丁もの鉄砲を撃ち放って、城内にいた敵兵ばかりか、女子どもに至るまで皆殺しにした。世に言うところの「撫で斬り」である。その数、総勢1000人(200人説、800人説も)に及んだというから、何とも無残。いかに政宗の力を誇示するための見せしめであったといえ、あまりにも苛烈であった。ただし、その効果はてきめんで、政宗の目論見通り、周辺諸国の諸勢力が肝を冷やしたことは間違いない。
さらに同年10月には、定綱と手を組んでいた二本松城主・畠山義継(よしつぐ)が和議を申し入れてきたが、その際、隙を突いて、隠居していた政宗の父・輝宗を拉致するという暴挙に出た。これに激怒した(実は自らが仕組んだとの説もある)政宗が一行を追跡。追いついた政宗は、父を助けるどころか、義継一行を父もろとも銃撃して皆殺しにしてしまったという。父の初七日の法要を済ますと、自らの手で死に追いやったにもかかわらず、父の弔い合戦と称して二本松城を攻撃。3万もの大軍を敵に回しての激烈な闘いぶりであった。さすがにこの時ばかりは、寡兵ゆえ退却を余儀なくされているが、3年後の郡山合戦では、事実上の勝利をものにしている。この一連の闘争の結果、奥羽中南部に広大な領地を確保することができたのである。
■最後まで貫いた伊達男の侠気

小田原城
小田原攻めで、秀吉は20万ともいわれる大軍を率いて北条氏を圧倒した。
ただし、その前年に発せられていた秀吉による惣無事(そうぶじ/私戦の禁止)に違反していたことや、小田原城攻めにおいての遅参などで秀吉から睨まれ、拝謁をも拒否されて蟄居(ちっきょ)することになる。ここで政宗は一計を案じ、千利休の茶の手前を所望したり、死に装束で出向いたりするなど、様々なパフォーマンスを見せることで、難局を乗り切っている。しかし秀吉の不興を買い、会津の地を没収されてしまったことは、返す返すも無念であった。また、天正18年に異母弟の政道(小次郎)が死去しているが、これも政宗が家督争いの末に誅殺したのではないかと言われることもある。
秀吉の死後は家康に接近。関ヶ原の戦いでは東軍に属して上杉景勝を攻撃。戦後は加増されて62万石の大大名となり、治国に力を注ぐようになっていった。
合戦の際の「撫で斬り」など、その残虐性が非難されるとはいえ、武将として、あるいは政治家として一級の人物であったことは間違いない。そればかりか、和歌や能のう楽がく、茶道にも通じるなど、文化人としても優れた一面を発揮した御仁であった。
3代将軍・徳川家光の時代の寛永13 年(1636)5月、伊達男の名にふさわしく、妻子にさえ死顔を見せないまま亡くなったという。殉死者が15人もいたというから、取り巻く臣下たちの思いもまた苛烈だったというべきか。辞世のは、「曇りなき心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」と、実に小粋。死の間際まで、華麗かつ侠気を貫いた生涯であった。
監修・文/小和田哲男