大奥での出世を決めたのは「①コネ、②運、③器量」
「将軍」と「大奥」の生活⑩
■大奥女中の採用基準とは?

毎年、新規に召し抱えられる御末は10人ほどで、大奥御膳所(台所)用の水汲みなどを担当した。新参舞は大奥御膳所の上段、東の板の間で、当夜は薄縁の畳を敷いたり、廊下に屏風をたてて目隠しをして催された。国立国会図書館蔵
大奥の女中はきれいな衣服を着ているし、おいしい物を食べている。大奥法度で「大奥のことは、一切外(そと)さまにいわないこと」と定められているが、宿下(さが)りに出た女中のなかには自慢げに話す者もいた。
どこまで本当なのかわからないが、そうした噂が広がり、大奥女中に憧れる若い娘が出てくる。とはいえ誰でも奥女中になれるわけではない。幕府が公然とリクルートしているのでもなかった。
しかし、大奥女中は国家公務員だから、採用に関しては厳しい。もっとも江戸時代初期や中期は将軍の意見が最優先するので、将軍が気に入った娘であればうるさいことはいわず、採用ということになる。
一般的にいって親類や知人の縁、先輩の奥女中の口利きなどで大奥に奉公することが多い。まず、親類書(しんるいがき/願書)を12、13歳の頃に出して採用の機会を待つ。
幕府は、採用条件を「旗本か御家人の娘」としていたが、ほかに重要なのは「一引、二運、三器量」の有無だった。
この引とは「コネ」であり、つぎに「強い運」、さらに「本人の容姿と才知」がよいということ。これがそろっていれば、採用に有利だった。
吟味の日、御年寄の前で文字と裁縫の実技試験があった。
その後、親類書にしたがって身元調査が進められ、30日ほどあとに採用決定(「御沙汰書」)が届く。そこには「何月何日、引越上(ひっこしあが)り可申候(もうすべくそうろう)」とあり、その日、大奥に上がると、御広敷座敷に案内される。
そこで御年寄から御宛行書(おあてがいがき/給与目録)、女中名、役向(やくむき)をいただき御台所に御目見得(おめみえ)となったのである。

願い親を通し書類審査(出願)、文字と裁縫の実技試験(お吟味)、身許調べを経て、大奥部屋方の多聞(たもん)としての採用となる。絵は裁縫の実技試験(お吟味)の様子と思われる。『娘御目見図』国立国会図書館蔵
■御末から家光の湯殿で手がついたお夏は例外?
女たちは採用されて、「ここから出世競争がはじまる」と思う人が多いようだが、じつはすでに宿元(やどもと/保証人)の身分や家柄などによって、おおよその出世コースは決まっていた。
たとえば旗本の娘であっても、御三の間(御年寄、御客会釈など上級女中の居間の掃除係)からはじめる。その後、適性に応じて呉服の間、御次(おつぎ)、御祐筆(ゆうひつ)など上級の役職に昇進した。
なかには湯殿で将軍の世話をしているうちに将軍の手がつき、御末から出世したお夏の方という女がいた。3代将軍家光(いえみつ)の御湯殿(おゆどの)役をしていたところ、家光の手がついて正保元年(1644)、次男の植松(うえまつ)を産む。のちの甲府宰相綱重(つなしげ)である。
こうした例は多いようで、きわめて少ない。
監修・文/安藤優一郎