将軍に最も近い役人だった「側用人」と「御側御用取次」の役割
「将軍」と「大奥」の生活㉒
目安箱が設置されてからは、これを御休息之間に運び入れるのも御用人取次の役目で、将軍自ら目安箱の鍵を開けて中の投書を取り出す。老中に関することと探索が必要なものを除いて老中に下げるのだが、この時も将軍自らではなく、御側御用取次が老中に渡すことになっていた。また、探索が必要な件についても、探索を行う御庭番との連絡をし、将軍との対面の時に立ち会った。
なお、吉宗の時代に一度は廃止された側用人であったが、9代将軍徳川家重(いえしげ)の時に復活し、不明瞭な家重の言葉を唯一理解できた大岡忠光(ただみつ)や田沼意次(たぬまおきつぐ)などが就任。ことに、田沼意次は、老中をも凌駕(りょうが)するほどの勢いであったという。ただし側用人は復活以降も、常設の役職ではなく、設置されない時代もあった。
御側御用取次は未決の重要書類を扱うが、将軍が目を通すのはこれだけではない。老中や若年寄が決定した書類を扱ったのが、御側衆だ。比較的機密性の低い書類を老中や若年寄から預かるが、自身では将軍には手渡さずに、御小姓頭取に渡しておき、小姓が将軍の手すきの時をみはからって裁可をもらった。
ただし、日勤の御側御用取次がいない夜間は、当直の御側衆が代行して上申事項を小姓を通じ将軍に渡すことになっていた。つまり御側衆も機密書類を取り扱うこともあったことからこの役目に就くと親戚や知友たちとの往来を控えめにしたという。
監修/中江克己、文/加唐亜紀
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