将軍に最も近い役人だった「側用人」と「御側御用取次」の役割
「将軍」と「大奥」の生活㉒
■5代綱吉の頃に始まった「側用人」

幕府の役職は時代によって変化している。側用人が設置されたのは、5代将軍徳川綱吉の時代で、御用人取次が設けられたのは8代将軍徳川吉宗の時代であった。御側御用取次は、定員3名だった。
将軍は広大な江戸城のどこで執務を取っていたのだろうか。江戸城には表(おもて)と呼ばれる公(おおやけ)の場所と、大奥を結ぶところに中奥(なかおく)と呼ばれる場所があった。中奥は現在に例えると首相官邸のような場所で、将軍は普段の生活をここで送り、仕事の大半もここでこなしていた。将軍が執務を行っていたのは中奥の御座之間で、後には御休息之間に代わった。
この中奥に、大老(たいろう)や老中(ろうじゅう)、若年寄といった幕閣が入って来るのではなく、書類を作成してそれを取次役の役人に渡して将軍のご意向を伺う。
こうした表役人との取次を行う役目には「側用人」(そばようにん)と「御側御用取次」とがあった。実はこの二つは、非常によく似ている。
側用人は5代将軍徳川綱吉(つなよし)が、牧野成貞(なりさだ)を任命したのが始まり。側用人を配することで老中ら幕閣に移りかけていた権力を将軍のもとに取り戻すことができたとされる。
この綱吉時代に活躍した柳沢吉保(よしやす)は、もっとも有名な側用人のひとりといえる。綱吉が館林(たてばやし)藩主だった時代に小姓(こしょう)として仕え、将軍に就任すると小納戸(こなんど)となり、側用人に抜擢されたのち、老中の座に就くなど出世の階段を駆け上った。
綱吉、家宣(いえのぶ)、家継(いえつぐ)と3代続けて重用された側用人だが、8代将軍徳川吉宗(よしむね)の時に廃止されてしまう。これは、将軍継嗣(けいし)問題の時に、自分に味方してくれた老中たちに報いるためだったといわれている。
側用人の代わりに吉宗が設けたのが御側御用取次であった。側用人は寵臣(ちょうしん)に肩書を与えた程度とされる場合もあるが、御側御用取次は、文字通り、政務を取り次ぐ役目を担う。旗本の役職で、大名と同等の処遇を受けた。
■老中をも凌駕した側用人の権勢
さて、御側御用取次の仕事であるが、老中から書類を受け取ると御座之間、後には昼食後に御休息之間にいる時に将軍のもとに届ける。将軍はこれに目を通し、疑問に思うところは質問する。こうして採決した書類を老中に下げ渡すのも御側御用取次の役目であった。
だが、この受け渡しの際に、御側御用取次は自分の意見を口にすることもあり、将軍が言うことでもよくないと思えば「なりません」と意見することもあり、その一言で将軍が考え直すこともあった。その反対に、老中から口添えを依頼されることもあったが、応じない場合もあり幕政に大きな影響を及ぼした。
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