将軍の政務のメインとなった「任命」と「裁可」
「将軍」と「大奥」の生活⑬
■家臣に四書五経を自ら講じた5代・綱吉

成島柳北(なるしまりゅうほく)
幕府公式史書『徳川実紀』などを編纂した奥儒者・成島家の養子となり、柳北を名乗る。安政3年に将軍侍講となり、13代家定、14代家茂に講義した。しかし、幕府を批判したため解任された。『十大先覚記者伝』国立国会図書館蔵
将軍は昼までは、月並(定例という意味)講釈の日であれば御座之間で、林家(りんけ)の講義を受けるか、御休息之間で奥儒者より講釈を受けた。将軍は武だけではなく、文の体現者であることを示すために、教養を身に付けることは欠かせなかった。これが極まると、5代・綱吉(つなよし)のように、家臣に四書五経を講じる将軍まで現れる。
その後、昼食をとった後は政務の時間である。御側御用取次(おそばごようとりつぎ)を御休息之間に呼ぶと、小姓も小納戸も席を退き政務の開始となる。御用取次は老中から来た書類を読み聞かせる。御用取次ひとりでは足りないほど書類があると、2〜3名の御用取次が読んだ。
読み終わり、伺い通りに裁可されると、奉書紙でできた札に「伺之通りたるべし」と書き、書類に挟み、老中へ下げ渡す。
将軍の意に叶わない案件なども当然あり、これも御用取次を通じ老中に伝達する。この時、御用取次は「なをとくと考えよ」などと将軍の言葉をそのまま伝える。
老中から将軍へ裁可を求める案件は、死刑や遠島刑など将軍の裁可が必要な処罰や、諸役人の任免や賞罰などがあった。すでに執行済みの件は、老中から宿直の御側、そして小姓頭取へ伝え、頭取が将軍へ言上することになっていた。
決済は少ない時でも2~3時間、多い時には夕方や深夜にも及んだという。さらに月次(げつなみ)の大名との謁見があるときは、政務時間を短縮し、正装して表の白書院に出向いた。
御休息之間での政務を終えると、次いで、御用之間に行く。この部屋には将軍自筆の書類、諸大名や寺院などに交付する御判物が入っている箪笥がある。ここで将軍自らが発給する文書に花押(かおう)や判をそえる。
市中の意見をくみ取り政務に活かすため、目安箱から出した書類も置かれた。ここで熟読・熟慮していたのである。
■御前御用と御人払御用という政務
これ以外に、政務に関するものとしては、「御前御用」と「御人払御用」がある。前者の代表例では諸役人の謁見(えっけん)があり、奥の御座之間で直接面命する。
町奉行任命の例をみると、任命予定者は足袋(たび)や印籠(いんろう)などを御錠口に置き、淵明の杉戸の前へ着座する。将軍が肩衣を着て出御し、御座之間上段に着座すると、新任の者は下段の入側に着座する。月番老中が名前を披露すると、将軍より「それへ」と声がかかる。
新任者は平伏し、将軍は「誰のあと何々」と申し付ける。すると老中は新任者の言葉を取り合い「ありがたく存じ奉る」と答える。将軍はこの言葉を受け「念を入れてつとめい」と言葉をかける。再び老中が取り合い「畏(かしこ)み奉りました」と引き受けた旨を将軍に伝える。将軍とは当然、直接の会話はない。
後者は、遠国奉行が赴任する時や、老中以下三奉行などを謁見する時に近習の者を遠ざけ、対面で謁見することである。将軍は御側御用取次や御側衆を従え、袴ばかりという軽装で御座之間に出御する。召し出された役人は下段障子際まで進み平伏する。御側の者が役人の名前を披露し終えると、二之間に控えていた御側衆や御用取次なども裏にある大溜の入側へ退き、「御人払い」の体を取るのである。
神奈川奉行(安政6年設置の役職)が、鎖港に関する談判が難儀している旨を言上(ごんじょう)をした時などは、将軍から「近くに寄れ」との上意があった。将軍と役人との間は四尺ほどに近づき、役人も少しだけ低頭し、さらに話を続けたという。
以上の通り、「御人払御用」は親密な空間の中で行われるため、君臣の一体感を高める効果もあった。
監修・文/種村威史